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ソーシャルグッドを欲望する若者たち

若者はいつでも何かを強く欲望するものだ。こういうことを言うともう僕は若者ではないみたいだが――いや。たぶん若者時代は終わったのかもしれない。

そんな前提に立つことから今回の考察を始めたいと思う。ちなみにいま僕はこの文章を東京に向かう新幹線のなかで書いている。右斜めまえに座っている男は静岡で降りるつもりだったようだが、この新幹線は静岡では止まらない。そんな車掌と乗客との会話の近くでこれを書いている。

さて、東京駅に着くまでにこの物語を語り終えることができるだろうか。できるかもしれないし、できないかもしれない。まあとにかく、やるだけやってみよう。



まず話は2008年まで時計の針を戻したいと思う。2008年、僕はみんなと同じように(もしあなたが大学生ならだが)就職活動をしていた。僕は結局のところシステムエンジニアとしてキャリアの最初の一歩をはじめるわけだが、しかしいまはそれは関係ない。いまはあの当時僕らの世代が欲望していたものについて書きたいと思う。

当たりまえの話かもしれないが、欲望は若いひとの方が強い。性欲も、所有欲も、出世欲みたいなものも、若い頃のほうが強い気がする(最後のはわからないが)。

僕らが就職活動をしていたとき、いちばん僕らに欲望されていた職は、外資系のコンサルタントや、投資銀行だった気がする。まあひとによって個人差はあるのだろうが、僕はひとつのトレンドとしてそれを感じた。

そして余りに当然のことで言いたくないのだが、なぜそうした職業が欲望されていたかといえば、かっこよく見えたからだろう。

かっこいい。

われわれ人類は少しバカなのかもしれないが、この「かっこいい」というのが自分のキャリアを選ぶときにも当然のように関わってくる。いや。誤解を恐れずに言えば、それが殆どだと言っても過言ではないのかもしれない。

そしていま時計の針が10年分だけぐるぐるとまわり、ときは2018年になった。もちろんいま二十代のひとはわからないだろうが、僕には欲望の組成が変化しているのがわかる。つまり。2008年僕らのなかに流れていたトレンドとしての欲望は姿を潜め、べつの欲望がやってきたのだ。

欲望はどこからやってきたのか? 

それはあとで語ることにしよう。いまはこの《新しい欲望》が海を渡る船だか、飛行機だかによって(あるいはインターネットかもしれない)この島国にやってきたことにフォーカスしたいと思う。

そしてその欲望に名前を授けよう(いや、厳密には僕は名前が拝命されていることに気づいただけだが)。



ソーシャルグッドだ。


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現代において若者を虜にしているのは、このソーシャルグッドという概念だ。この考え方は10年まえにはこの列島にはまだ存在していなかった。そして当然のことながら、存在しない概念を欲望することはできない。ワードが目のまえに現れてくれて、人間たちはようやく欲望が可能になるわけだ。

若いひとたちは自分が自分で欲望しているものを選択していると思っているだろう。Readyfor、CAMPFIRE。そんなソーシャルグッドを中心にすえている企業を欲望しているのは自分なのだ、と。

これは厳密に言うと違う。人間は自分が知覚できるものごとの中から、他人に欲望してもらえるいちばん良さそうなものを選択しているにすぎない。よく「会社のビジョンに共感してくれるひと云々」という言語運用をみかけるが、あれも中身はない。

べつに若い人間の個体は会社のビジョンに共感しているわけではなく(いや〈共感しているはず〉と自分に呪文をかけているわけだが)それがかっこいいから欲望しているにすぎない。人間が職業を選ぶというのはこのぐらいファジーだし、そのファジーさも時代ごとに流れている欲望の定型に左右される。

ゆえに企業がまだ若い20回ほどしか春を目にしたことがない人間の個体に「ストーリー」を求めるのは、おままごとに近い。しかしそのおままごとという共同幻想が必要だというのは、話としてわからなくはないが…。




話を先に進めよう。

最近プラスチックのストローがいきなり血祭りに上げられているようだが、僕らぐらいの年齢になるとこういうのを見るのは初めてではない。

というか僕がまだ大学生だった2006年ごろ(12年まえだと言われると少し寒けがする)に同じようなソーシャルグッド的生け贄探しをみたことがある。それは、割り箸を徹底して社会から撤廃しようという動きだ。

当時、この割り箸を使うのはエコじゃないのではないか? というソーシャルグッドの走りみたいな言説がでてきて、日本の中でなんの疑問も持たずに割り箸を使っていた団体は割り箸を使わない方向に舵をきった。彼らはまるで視覚の外から飛んできた矢に真理を串刺しにされたかのような気がして、変えない理由が思いつかなかったのだろう。

しかし実際のところ、割り箸はいまもまだ存在している。

割り箸は木を育てるうえで日当たりを考慮して間伐しないといけない木から作られているので、むしろ人間の手が入って維持される植生からでる副産物として機能していたわけだ。

いま。プラスチックのストローや、ビニール袋がこれと同じような仕組みによって攻撃されている。いや実際にプラ・ストローとビニール袋は生態系にとってよい存在ではないのかもしれないが、だったらペットボトルの飲料の不買まで行かないと口だけのソーシャルグッド的活動(というかただの若気の至り)にすぎないように思える。


ちなみに僕の出身大学の割り箸をすべて金属の箸に置き換えることになる「生協へのアンケート」を書いた張本人が僕自身だということを考えると、今回の一連の流れはなんだか身につまされるものがあるわけだが…。(*_*)


つまり端的に言うと、若者は短絡的なソーシャルグッド活動に1票入れておけば周囲からの自分の評価があがること間違いなしと思ってその身体を動かしているに過ぎない。すべては他者からどう思われるか、それが環境問題よりまえに来ているときに、こういう現象が世界に現出する傾向にある。



さて。このソーシャルグッドという欲望対象がどこからきたのか、そのことについて書くべきタイミングが来たようだ。

まあこんなことはわざわざ言うまでもないことだが、もちろんこのソーシャルグッドというひとつの欲望の定型は輸入されたものだ。

それは西海岸が始まりである可能性が高いはずだが、西海岸のどこなのかは僕のリサーチ力がへっぽこでまだ見つけられていない。

あるいはスタンフォードの図書館に座っているもしゃもしゃした髪の毛の少年の脳みその中からかもしれないし、オーガニックな食材を売るヒゲを生やしたドイツ移民の子孫が書きつけたメモの中かもしれないし、Startup投資家の雑談の中かもしれない。

とにかくこれは日本という国が生み出したものではないから、それは極端なことを言えば人々から欲望されるための定型を日本語に翻訳して流行らせているだけの活動とも言える。

だからその輸入した考え方を「どうこれ」と渡されても、「いやそれは西海岸からでてきたイデオロギーの切れ端でしょ」としか僕には思えない。

もちろん日本だけで世界にまだ例をみないイデオロギーを生みだした方がいいのでは? というのは少し無理難題かも知れないが、それでもそれはやはり外の価値観の模倣であり、つまりはまったくオリジナルな思想体系からでてきた起業精神とはまったく異なっている。



さて。世界の欲望の変遷について述べてきたことで、読んでくれているひとにも少しずつわかってきただろう。現在の若者は新しい存在かのように言われているが、僕が観察するにそれほど昔と変わりない。特に知性の面でいまの若者たちが僕ら世代が若かったときの知性よりうえかというと、そんな風には思わない。完全に同じレベルだと思う。

ただ。欲望をする対象が変わり、イデオロギーが変わった。そして変わったイデオロギーに自分の唯一無二性をくっつけようと都会で四苦八苦する子たちがあいかわらずいるだけだ。

世界はいつだってこの構造を再生産しつづけている。そして若い子たちはまだそれが人生で初めてなのだ。



いま。僕は新幹線をでて、東京の街の中で結びの文章を書いている。上野駅の不忍(しのばず)改札のまえに立ち、人ごみのなかで突っ立って携帯にフリックしている男。それが僕だ。

東京はまったく変わっていない。じつは5年ぶりにこの地に降り立ったかが、おそろしいほど東京は東京のまま劣化している。新しい建物は殆ど存在せず(わずかにあるのは知っている)すべての建物が5年分だけ古びていて、その中をより多くの外国人観光客が歩いている

東京のひとの顔は疲れていて、どこか焦点も定まっていないようにみえる。プラットフォームの音楽と匂い。5年ぶりに来たからわかるが、東京には東京特有のメタルで雑多な匂いがある。それは僕にとって懐かしい友人と再会したときみたいに、見知った匂いにおもえる。

僕は街を歩いていると、東京のひとが何に疲れているかわかってしまう。東京のひとは、比較に疲れているのだ。多くのひと。多くの職業。多くの欲望。この人口稠密地帯だからこそたちのぼる比較の嵐が都内を歩くと渦巻いている。

僕はその比較の風のなかを歩いて、すこし同情的な気分になる。明滅する信号の明かり。目が痒くなる汚れた空気。排ガスと油の香りがまじった臭い。

この世界のなかで自分を唯一無二の存在として認めさせるため、殆どすべてのひとが自分の欲望を仕事の形にして結晶化しようとする。いまも、過去も、未来も。この人口稠密地の海のなかから顔をだして、どうにか息を吸う方法をひとびとは探しているのだ。



上野駅の近く、レストラン「じゅらく」で僕はこの文章の終わりに差し掛かっている。僕のまえにはタイから来ている8人組の観光客が仲よさそうに終始話している。僕はグラスに入った水を飲み、テーブルにできた水の輪っかを指で消してみたりする。

東京は経済発展していないが、欲望はトレンドに後追いで付いていっている。日本の経済的敗戦まで秒読みの世界。僕はそこで、とりあえず五目焼きそばでも食べることにしよう。

世界はまだ終わらない。
世界はいつだって新しく始まろうとしている。

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