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テクノロジーの進化からみる体現することの重要性と次の時代の考察。

突然ですが、僕は思考も行動も多動的で、様々なモノやコトにすぐに興味を持つ(僕を知っている人なら、うんうんとうなずいているはず) その中で、ここ最近とても興味を持っているのはテクノロジーの進化についてだ。


(その興味の傍、僕の生き方とアイデアのインスピレーションを与えてくれるFoster Huntingtonのような、対局的にあるようなネオヒッピー、ミニマリズムやオフグリッドなどの、人間らしく自然との調和を目指すライフスタイルへの探求をしており、渦中に身を置いているのだが・・・)



皆さんも感じているように、テクノロジーは目まぐるしいスピードで進化している。僕自身、話題のchatGPTに色々と質問をして、驚かされている毎日だ。

現時点で、司法試験に合格したりするレベルだし、最近実装されたGPT-4を見る限り、僕たちがスマホでググる行為を辞める時が近い将来、いやすぐそこに感じる。

また、AIが人間に勝らないと言われていたアート領域に関しても、Midjourneyをはじめ、芸術性あふれるモノが生み出される現状だ。


AIの登場によって、独占されていた情報が隔たりなく、誰でも手に入れることができるようになっている。つまり、法律家や知識家、学者などがみんなのスマホのようにポケットにいるようなイメージ。


AI以前の時代に重要視されていた、権力、学歴、資格、知識などが、この大転換期によって、無価値とはいわないが、価値が薄れていくだろう。これらは、実態がない情報であり、言葉でパッケージングすることで可視化し意味を持たせ、更にその情報を独占することで価値をもっていた。


でもこの流れは今に始まったことではなく、古代ヨーガの視点でも同じことが言えるのではないか、と考える。バラモン階級のみがヴェーダの知識を独占的に使うことが出来た時代から、長い時を経て、その知恵が特権階級から、民衆へと降りてきて、誰でも手にすることができる知識へとなった。類似点はあるだろう。

山にある、ほんの僅かしか流れていない水の源流も、いずれは大河となり、僕たちが恩恵を受けるかのように、この流れは自然の摂理とも言えるだろう。

個人のエゴの介入により、その流れを遮ることはできるかもしれない。しかし長くは続かない。まさにその虚像のダムが崩壊する音がしている。


それは「情報のフリー素材化」、とでもここでは言おうか。



今日これを書いている時点での僕の意見だが聞いてほしい。

AIが様々な分野においてトランスフォーメーションを起こし、僕たちの仕事は奪われると良く言われている。その一方で、しばらくは置き換えができない、人間にのみ出来ることがあるとしたら、それは「体現する」ことだと思う。


例えば、ヨガや瞑想の効果や目的など、AIに聞けば的確に教えてくれるが、その情報から実行し、体験して味わうことは、まだAIには踏み込めない領域だ。


今後、この「体現すること」にもっとフォーカスが当たる流れがやってくる。


AI発展により、情報を独占する意味がなくなり、情報を使い「やっている」「やっていない」という体現しているかがとても大事になってくる。


それができるのは僕たち人間だけであり、それがイノベーションにより皆平等に権利を与えられているもの。


そして、僕がワクワクしていることは、今までの世界では、可視化できず評価されていない「夢」「思想」「想い」「情熱」などが可視化される時代が到来する予感がしていること。


神がいて、宗教が統治した時代は、神に近い人に権限があり。

国家が統治した時代には、国家権力を持つもの。

経済システムが統治した時代には、株主。

そして、更地になった新たなフィールドでは、皆が主役となる。


それはまさに「人はみなクリエイター」。


さあ面白い時代の幕開けはすぐそこだ。


その中で僕は、テクノロジーとネイチャーを融合し、人間が生きるとは何かを、体現する。


あなたは次の世界で何を創造しますか?


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