見出し画像

あの人の『ありがとう』は切れ味の悪いナイフ

どういう訳か、
ある友人に『ありがとう』と言われると
釈然としない気持ちになった。

礼を言われて気落ちするというのは珍しい。
「君に礼を言われる筋合いはない!」
なんて台詞をよく耳にするが、
私とその友人に限ってその台詞は当てはまらない。
礼を言われる筋合いのある、旧友だからだ。


その友人をPさんとしよう。
付き合いも長くなったあるとき、
Pさんが持つ二面性に気づいた。

『誠実』と『不誠実』。
Pさんの中に内在するギャップだ。

というより、
私から見えるPさんのギャップと言う方が
正しいだろう。
人は誰しも何面性も持っていて、
相手が変われば、
見せる面も、見える面も変わるのは
自然なことだ。

Pさんは人生において
『誠実』という言葉を
大切にしている。
これはPさんが私に見せる一面。
だからだろう。心から誠実に、
『いつもありがとう』
と言ってくれる訳だが、

私に見せるもう一面では、
ありがとうばかりで人任せな
『不誠実』さがちらついていた。

私はその『誠実』な言葉と
『不誠実』な行動のギャップに
嫌悪感を覚えていた。

このギャップは私を苦しめた。
誠実にありがとうと言われると、
Pさんの行動に不満を持つ自分がひねくれているんだ、
そんな風に思ってはいけないと、
自分を諫めるようになっていた。
本心を理性でねじ伏せる状態を何年も続けるという行為は、心を疲弊させた。

切れ味の悪いナイフでトマトを切るみたいだった。
表面の皮は切れてないのに、
中の果肉は押し潰されてる。

『ありがとう』と言われると、
私は笑顔で返すのに、
心は少し押し潰されてる。

Pさんの『ありがとう』は
切れ味の悪いナイフだった。
一緒にいると、少しづつ心が潰れていくのだ。


人間関係というのは不思議で
人の組み合わせごとに違う関係性が築かれている。
だからPさんの切れ味の悪いナイフは、
他の人には見えないかもしれない。

同じ組み合わせの人同士でも、
時間の経過、環境の変化とともに
関係は変わっていく。

近づいたり離れたり。
それは自然だったり、意図的だったりする。

私はPさんとの距離を調整することにした。
友人でなくなる前に。
私たちはきっと長い年月をかけて、
自然と近づき過ぎてしまった。
きっと今は、この距離ではない。
だから意図的に、
ナイフの届かない位置まで下がってみる。

うん、いい感じ。今、ナイフは見えない。
切れ味だってわからない。


更に年を重ね環境が変わったとき、
私たちは、また自然と近づいているかもしれない。
その時Pさんのナイフがどうなっているかわからないし、
私が違う種類のナイフを持っているかもしれない。

だけどその時はまた、
調整していけばいい。

会いたくない時期があってもいいじゃないか。
すべて分かり合う必要もない。
すべて受け入れる必要もない。
近づいたり離れたりを繰り返す。

親友?それは幻想だよ。
だけどきっといつまでも、
私たちは旧友同士だ。


この記事が参加している募集

熟成下書き

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?