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ある街の夏 24/08/01

地域の人から「ガチャコン」と呼ばれているワンマン列車は、今日も冷房の効きがよかった。それに、案外閑古鳥が鳴いているという訳でもないのである。平日の真っ昼間であるのに、見渡せばそれなりの数の客が乗っている。みんな、何処へ行くのだろうか。私は、例によってとある街にある浄土真宗のお寺へ行く予定であった。ただし、これもまた例によって聞法会は夜からなので、予定の時間まではまだ時間がある。とは言え自宅へ居てもどうせダラダラ昼寝をするか水風呂に浸かりながら読書をするかという時間の使い方しかしないので、折角遠くへ足を運ぶのだから、早目に移動し、行き先の街に数時間滞在し、そこの商業施設のフードコートで油を売ろうと思ったのであった。そんな時間に「ガチャコン」に乗っていたのはそういう事情故である。

夏の近江平野は、今年も明るい。未来の騒がしさより、過去の穏やかさを連想させる広さである。この辺りでも、中世や近世の初頭は兵隊の行軍が盛んであったのだと思う。それに、このだだっ広い平野にポツンと存在した軍用飛行場には、先の大戦中は数多くの爆弾が落とされたと言う。歴史の中に、私も居るのである。そうして終着駅に着こうとする頃になると、列車の左手に小さな山林があるという発見があった。住宅の多い街中に、時代に取り残されたような佇まいでただあった山林であった。私は、暑いのは承知の上で、この山に登りたくなった。幸いな事に、階段が綺麗に整備されてあった。列車を降り、踏切を渡ると、私は特に何も考えずに階段を登り始めた。そう言えば、いつかの夏にもこのような山登りをした気がした。

確かに暑いのであるが、山の中は木陰になっていて、大昔からあるような涼しさが、そこにはあった。蝉が元気に鳴いていたし、トンボも何匹も飛んでいた。時代に取り残された山は、寧ろ誇らしげであった。人が少しでも減れば、この街はすぐにでもこの山の影響下に置かれるのだろうと思った。けれども、その威厳は今は静かさでもあった。登った階段とはまた違った道から下山をすると、麓には神社があった。看板を確認してみると、どうやらこの神社は西暦800年頃から存在しているらしい。私はふと、共存、という二文字と、日本、という二文字を思い浮かべた。自然と共にある日本の夏は、この街にはあった。

と、そういうちょっとした散策を終えたら、駅前にある商業施設に入った。歴史だの自然だの何だの言ったものの、やはり人工的な涼しさは圧倒的に快適で、肩の荷が降り、苦笑いした。私は、この商業施設のフードコートが好きである。近代という時代からやや取り残された雰囲気のあるこの街で、されど近代感のあるこのフードコートには、今日も沢山の人が滞在している。特筆すべきは、高校生の集団だろうか。これから、とか、これまで、とか、或いは他者…とか、そういうものよりもまずは青春を優先しているとしか思えない、茶髪でピアスをしている、なんなら電子タバコまで吸っている、明らかに刹那的なその高校生の集団は、私からすれば、明らかに若者であった。私も、どこかでは「若者」と思われているのだろうか。私は己が若者なのか若者ではないのか、わからない。この高校生らのように胸を張って外を歩ける年齢は、若干過ぎてしまったような気がする。そんな中で、その高校生らの元気に圧倒されながら、端っこで小さくなり、私は読書をするのであった。読んでいる本は吉川英治の「親鸞」である。聞法会までは、まだ時間がある。

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