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観能備忘録 ~姨捨~

幻想


 良い能をみたとき、幻想が浮かぶことがある。現実の舞台の上に、現実ではないものがみえるのだ。演者と僕との間に作り上げられた共同幻想。これは僕だけのもので、きっとみている人1人1人が違う幻想を描いている。

 そんな幻想の一端を書き残しておきたいという欲求にかられ、衝動的に新たなnoteのアカウントを作ってしまった。これは、僕の幻想の記録であって、批評ではない。批評をする立場に、僕はない。だから、誰のいつの舞台かは、ここではかかない。ただ、みながら僕の中に浮かんだものを、書き残しておきたい、それだけだ。そして、ほんの少しある邪念は、これを読んで、そんな幻想がみえる能、みてみたい!と思ってくれている人がいたらいいな・・・。

月光と戯れる老女

 『姨捨』をみた。『桧垣』、『鸚鵡小町』と並ぶ三老女。芸を極め抜いた者しか許されない、秘曲中の秘曲。静謐な世界観が2時間を超える長大な舞台を支配し、そして終わった後も観客の心を支配する。

 パンフレットの中に、演目の特性上、終了後の拍手はお控えください、という注意書きが入っていた。そんなことをしなくとも、拍手ができないほど観客の心は圧倒的な静寂に包まれた感動で満たされていただろうが、「感動⇒拍手」という構造にすっかり慣らされた人も多いだろうから、得策かもしれない。

 特に強く幻想に包まれたのは後場だったから、そこを中心に書こうと思う。

 間狂言が終わって、ワキとワキツレは待謡を謡い始める。その終わり、彼らは脇正面から正面に体を向け、拍子不合で謡う。

「三五夜中の新月の色。二千里の外の故人のこころ。」

 その時、間語りの間に暮れ始めていた山に、夜のとばりがおりる。静かに一声の囃子が流れ始める。

 清涼な笛の音が印象的だった。風の音か、虫の声か・・・。

 舞台に月光が差し込む。
 
 その中、どこからか白衣(びゃくえ)に身を包んだ老女が現れる。白地の長絹に、やや浅葱がかった大口、鬘は黄身がかった白、姥の面。

 その足取りはおぼつかなくも軽やかで、月光の中舞うかのようにして舞台に歩み入る。後シテの第一声、

「あら面白の折からやな。あら面白の折からや」

 決して声を張り上げているわけではない。それどころかかすれてさえいる。それなのに、月光にのせられて軽やかさをもってすっと響き渡る。涙が出そうになった。

「月にみゆるも恥ずかしや」

 と僅かに左袖を上げて顔を隠す、扇に月を映す、など常に能楽堂の屋根を突き抜けて広がる夜空に輝く満月の存在が意識させられる。それをうけてシテの白衣の老女は自分自身も輝く。

 序之舞の最中、一度少し前に座っていた親子が席をたって退出した。目の前を横切られて一瞬夢が覚めた。そのときに見えた老女と、再び夢の世界に戻されて見える老女はまったく別の存在にみえた。夢が覚めたその一瞬だけ現実の物体としてそこに存在していた老女は、再び夢に引き戻されるとその輪郭がぼやけ、体の背後が黒く見えるほどに輝いて見えた。その一瞬の覚醒を持った得なくも思ったが、それがあったからこそ夢が際立ったとも思う。

 序之舞の中での、いわゆる「弄月之型」。大小前にタラタラと下がり、左手にもった扇に月を映し、空を見上げる。月光が老女に降り注ぐ。じっと動かないその場面が、この曲の一つの頂点であるように思った。再び立ち上がって静かに舞い続ける老女の身体が放つ光がどんどん強くなる。強い光に輪郭がぼやける。

 大ノリがはずれて、

「夜も既に白々とはやあさまにもなりぬれば」

と老女がスッと空を見上げると、静かに朝の気配が近づいている。月も傾き、白んでいる。月光を受けて輝いていた老女の身体が、ふと霞む。ワキとワキツレが、ワキは正先側、ワキツレは大小前側を通って、シテの周りを通り過ぎていく。早朝の白い光に包まれて、シテの姿は既にほとんど見えない。ワキ一行はそんな彼女を一瞥もせず、月光が作り出す夢から醒めたように、現実へと戻っていく。霞んでいく夢と、流れる現実。その対比が舞台に、いや舞台と観客との呼応の中に作り出される。ワキを見送った老女は

「獨り捨てられて老女が」

としゃがみこむ。しゃがみこんだ老女の姿はどんどんと薄くなり、やがてそのまま朝の清涼な山の空気の中に溶け込んでいく。

「昔こそあらめ今もまた姨捨山とぞなりにける。姨捨山とぞなりにける。」

 現実の舞台では、地謡が謡いあげたあとも、静かにお囃子が後奏を奏でる。シテは静かにたって退場していく。だが、その姿はもうみえない。勿論、現実にはみえている。でも、みえないと錯覚する。橋掛かりを帰っていくシテではなく、誰もいなくなった舞台に意識がいく。僕の意識の中では、そこで老女は山の空気に溶け込んで姿を消したから。お囃子も、地謡も去る。観客が動き出す。それでも、あの月光に照らされた老女が意識の中で舞い続けている。しばらくは誰とも口を聞きたくない。




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