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【My roots】①書きかけの手紙。
暑い夏が来ると親父とスイカを思い出す。
まだ小さいころ、暑い夏の休日になると決まって僕が自転車の籠の前に乗せられて、後ろには姉が乗って、3人で真っ黒に日焼けするまで泳ぎ遊んでくれた。プールから帰ると、必ずといっていいほどスイカを頬張る。
僕がスイカがあんまり好きではない。が。親父はスイカが大好物で。スイカは食べるにつれて、だんだん甘みが無くなっていくのが嫌いっていったら、「スイカは、いいぞー。人生が詰まってる。甘いばっかりじゃなくて、甘みが落ちたところも塩かけたら別の味がするんだ。その甘みを味わいたくて、また次が食べたくなるだろ?」
…ちょっと何言ってるか分か(ry
って顔をしてたら、「いいから食うんだ、美味いんだから」と言って、スイカの半玉と塩とスプーンとを渡して、仁王立ち。
腹は減っているし、僕は渋々スイカで腹を膨らませる。当時食が細く、体も小さかった。食べるという行為それ自体をご満悦に見守る親父。徐々に甘みが薄れ、後半はほぼ美味しくないんだけど、まあ、それで喜んでくれるならいいかと思い、むしゃむしゃと食べていた。幼いころは親父が喜んでくれることが僕の喜びだった。
親父は普段は忙しい人。
太平洋戦争で父を亡くした親父は、弟である叔父のもとで育てられた。詳しくは知らないが、厳しい生活だったようだ。叔父さんの息子(僕の叔父?)は大学まで行かせてもらってるけど、親父は中学校出た後、もう働きに出ている。
親父はとても頭のいい人だ。本とか投資とか好きで、人付き合いもよかったから、普段は誰かしらの相談に乗ってあげたり、仕事であったビール飲料の開発を遅くまでやっていたた。僕ら子供にかける時間は多くなかった。
プールとスイカは親子の数少ないイベントだった。
何を話したかはさすがに覚えていないが、お互いの日焼けした顔。吹き付ける扇風機の心地よさ。親子で散らかし放題で母に怒られた怒号。よく覚えている。
・・・
小学校に上がった最初の夏。このイベントは急に幕を引く。
僕たち家族は病院にいた。
あの日焼けした笑顔と肌は、陶器のような白い肌に変わって横たわっている。仕事に明け暮れ、引き締まった身体も半分くらいの細さに変わっていく。急性白血病。
それでも、僕らがいるときは親父は笑顔を絶やさないようにしてくれているようだった。ただ、日に日に病状が変化していく姿は、全員が直感的に、もう過去のような元気な姿になることはないと感じ取っていたように思う。
言葉にならない夜が続く。
あんなに心地よかった扇風機が、生温い風を運ぶようになる。沈黙が多くなる。泣けば、釣られて誰かが泣いてしまいそうで、そうするともう止まらなくなりそうだから、全員が感情を露にするのを遠慮していた。
どうしてこんなにも力がないのだろう。どうしてこんなに僕は小さいのだろう。今の状況を何もできないのが悔しく、惨めで、自分に怒っていた。家族全員がそう思っていたと思う。
「神さま、おとうさんはとってもいい人なんです。たくさんの人の力になってあげられる人なんです。ずっと苦労してきた人なんです。いつも笑ってはげましてくれる人なんです。神さま、おとうさんはまだやりたい事があるっていっていました。ビールをもっと美味しくする方法を考え付いたっていってました。だから、どうか。どうかぼくたちから、おとうさんを連れて行かないでください。」
声なく呼ぶ声を空に届け続ける。
声が届かない事は分かっていた。声を上げても、自分の無力を証明するだけ。悲しみが増すだけ。それでも数えきれないくらい、空を見上げて声を届け続けた。
…いつしか病状の親父に会いに行くのをやめた。母と姉は一度だげたしなめたが、強くは言わなかった。親父も何も言わなかったようだ。僕は相変わらず、夜になると空を見上げていた。声を届けようと必死に。
奇跡など一瞬も起こることなく、すぐに最後の面会が来た。流石に家族親戚総出で一緒に来いと言われ、面会に立ち会った。
また親父は細くなっていた。
当時の僕の小さな体が、見劣りしないくらいに衰弱していた。
それでも、嬉しそうにして話をしようとしている。声が聞こえない。衰弱が激しく、もう声らしい声も出ないことは言われなくても分かった。
この時が最後の別れになるというのに、今まで面会に来れなかった自分と、目の前の現実を受け入れられないことから、病室の隅の方にずっと陣取っていた。ああ馬鹿だ。なんと馬鹿なんだ。
見かねた母と姉が、最後に親父の傍に寄り添う機会を作ってくれた。
何を言われたかをあまり覚えていない。母が後で、みんなを頼むとか言われていたらしい。僕はただ無表情に目の前の親父を見ていた。周りは思い思いの感情を表せていたのか、すすり泣く声やそれでも励ます声等をかけていたように思う。
僕の姿をした僕が、ただ親父を見ていた。空を通じてあんなに雄弁に届けた声が、こんなに近くにいるのに、届けられなかった。
程なくして、親父は本当に声が届かないところに旅立った。
葬式でもそれ以降も僕はほとんど感情をださなかったらしい。僕もその辺の記憶がほとんどない。ショックがあまりに大きいと人は感情を消すことを選ぶようだ。
ただ、暑い夏が過ぎていく。それだけだった。
3週間ほど過ぎて、8月が終わろうとしたある日。戸棚を整理しているとメモ帳の束を見つけた。親父のメモ、というか記録日記のようなものだった。ぱらぱらとみていると、開発途中のビールの事だけでなく、日々の雑記のようなものも書かれていたようだ。
書いていることは正直よくわからなかった。が、普段しゃべっていたことだったことがここに文字になっていることが分かった。
扉が開いて、親父の声や息遣いが聞こえてきた気がした。
(え…え…。おとうさん…?)
読み進める。楽しそうに懸命に仕事に打ち込む姿が浮かび上がった気がした。声をかければ応えてくれそうなくらい、ありありと。
「…やった!」「もう少しだ!」「くっそー!」「あー、もう!うまくいかねえ!!」「何やってんだ、、、」「ついに出来た!」「やっぱり夏はスイカだな!」「これなら勝てるか?」
色んな言葉が書き込まれ、その言葉がまるで今しゃべっているかのように聞こえた気がした。
そして、最後のページには
「ここまでよくやり切った。もういいんだぞ、お疲れ。よろしく」
という文字で終わっていた。
誰にあてたメッセージかはよくわからない。何の文脈もなく。でもそれが、自分のために言われているような気がした。
(あの声…届いていた…。空の声も、ベットでの声も)
少なくともその時そう思った。
…気が付いたら大声で泣いた。泣き続けた。母がびっくりしてやってきて、大声で泣く僕とメモの束を見て母も泣いていた。あの時ようやく親父が死んだことを受け入れたのだろう。
…
何十年かぶりにスイカを食べたくなった2020年の僕は、もうすぐ死んだ親父と同じ年齢になろうとしている。
食が細く、体が小さかった僕は、パワーリフティングという競技に出会ってしまい人一倍の体格を持て余すようになる。
人事労務という人を扱う仕事をする一方で、リーダーデベロップメントを生業とする講師も行っている。過去の記録を見るとわかるが、発達障害が判明し、色々と思うことばかりだが、障碍者の自分だから伝えられることもあると思って、いただいたオーダーに関しては、期待以上のものを届けると決めている。
コロナ禍の中で不屈のリーダーを何としても育てたいという企業の要望に応えられるよう、日々苦闘の連続だ。でも、リーダーとして現場で頑張っている受講生の方の活躍を聞くと、本当に良かったと思える。
不屈のリーダーの理想の一人に間違いなく親父がいる。あの時まだ開発途中だったビールは、後進の方が引継ぎ商品化したようだ。今では超ロングセラー商品となり、ビールが買えるお店で買えないほうが珍しいくらいだ。
しばらくしてから、父に会いに来てくれた当時の後輩という方は、立派な役職がついていたらしいと母が冗談めかして言っていた。
ただ、僕はどっちかというと競合のK社のビールの方が好きなんだが…親父に怒られるだろうか(笑)
あのメモの束は、親父が自分や未来に向けて充てた手紙のようなものだと思ったと思う。明日はこうしよう、こんなことをやってみようと。
親父が自分の明日や未来にあてた書きかけの手紙達は、残された人に今も何かを与えてくれている。
まだまだ認知が乏しい障碍者の世界。