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孫の顔を見に来ただけだ。

トレーナーになってから様々なお客様と出会ってきた。そんな中で私は働く楽しさを越えてこの人の為に、と本気になり、この人の為に笑みをこぼした瞬間が何度かある。

私が働いていたジムは女性のお客様が九割で、たった一割の男性の中に七十代前半のカズさん(仮名)というお客様がいた。カズさんは入会した時のカウンセリングで膝が痛いのをどうにかしたいと訴え、日常生活でも痛むので運動して筋肉をつけて少しでも生活を楽にすることが目標だと話していた。詳しく聞けば、趣味はゴルフで週末に友人と朝早くから車を飛ばしてゴルフを堪能し、その後にビールを飲むのが楽しみなんだとか。それも年々、膝の痛みが悪化してグリーンを歩くのもしんどくなってきているとぽつぽつ話してくれた。

カズさんはジムに入会した当初、右膝を引きずるように歩いていた。階段の上り下りも辛く、踏み台昇降のような運動も痛み、二十秒間その場で足踏みするのでさえ呼吸は乱れ、十分間の運動でもTシャツ一枚が絞れるほどの汗で滲み、思っている以上に出来る運動が限られていた。それでもカズさんは休まず週二~三回は必ずジムに来て運動を続け、最初は挨拶するだけの仲だったのがいつの間にか毎回会うたびにおしゃべりをする時間が増えていき、今回のゴルフのスコアはよくなかった、とか昨日は飲みすぎた、とか色んな事を沢山話すようになった。

カズさんは運動後に乱れた呼吸を整えるのにベンチで休憩する時間がある。その時、私は決まって近くで見守るようにしていた。それは仕事の観点からでも容体が急変したり、低血糖を起こす人もいることから安全の為、というのもあったが、カズさんはいつもベンチで休みながら他の人が運動している姿を見ては独り言のように「みんなすごく動けていいな、俺には無理だ。」と言っていた。そんなネガティブなことを言うたびに私は近くまで言って「そんなことないよ、これからカズさんの身体はみるみる変わるから。」と言って笑いながら呼吸が整うのを見守り、最後はまた次も待ってますね、とお見送りするのがお決まりにになっていた。


カズさんは口癖のように、昔は動けたんだという。高校時代はラグビー部で強豪校だったから練習もハードで、毎日走り込んで、全国大会も行って、俺強かったんだよ、と楽しそうに話す。その話は何度も聞いたが話している時のカズさんの顔があまりにも楽しそうで何度も最後まで聞いてしまう。ふと私はその話がただの自慢ではなく、また昔みたいに動ける身体に戻りたいという本音が漏れているのではないかと思うようになった。

きっかけはいつものようにジムのフロントで受付をしている時、携帯を新しくしたんだと見せてくれたとき、画面には綺麗な女性が微笑んだ写真が待ち受けにされていて、思わず「この女優さんのファンなんですか?」と聞いてしまった。するとカズさんは「綺麗だろ?これは俺の奥さんなんだ。数年前にガンで亡くなったけど。」と笑いながらさらりと答えてくれた。なんて返していいか分からず凄く綺麗な方ですね、としか言えずに終わってしまった。でも本当にとても綺麗で美しくて、たった一瞬しか見ていないのに今でも忘れられない。


その日の営業終わり、私は店に残りカズさんのカルテを取り出して読み返した。カズさんは一人で暮らしている。唯一の楽しみでもある大好きなゴルフは年々楽しめなくなり体力が落ちてることにショックを受け、昔のように動けたら、と願っている。病院では膝に注射を打ったりと騙し騙し生活しているが、いつ歩けなくなるか分からない。色んな気持ちが込み上げてきて自分に出来ることは何かと考え、私はこの人からゴルフだけは絶対に取り上げたくない、いつまでも元気で長生きしてほしい、望むような動きが出来るように私の持てる限りの知識すべてを出してでもこの人の身体を変えたいと本気で思った。

カズさんがジムに来た時、私と本気で身体を変えてみないか?と直談判した。週に一度でいい、この先、長く大好きなゴルフを楽しむために、大切な人達と一日でも長く生きるために、私に時間をもらえないか。カズさんはやるだけやってみるよ、と快く受けてくれ私と週一回のマンツーマン、いわゆるパーソナルトレーニング生活が始まった。

カズさんはスクワットもままならないし、片足でバランスをとることだってほとんど出来ない。ゴルフに必要な体幹や柔軟性に関しては何から改善したらいいか本気で頭を悩ませた。私が最初に取り組んだことは自分がゴルフの知識を得ること。実際にフォームをとってスイングしてみたり、ゴルフもやった。ゴルフの参考書を買って読み漁り、ゴルフの大会を録画して見て、プロゴルファーがやっているトレーニングを実践し、時にはそのプロがオンラインでやっていた講習に参加したり、スポーツ用品のゴルフコーナーにも行った。どんな動作をした時にどこが痛み、ショットがブレるのか。一番使う筋肉やカズさんの日常生活での動作や身体のクセを思い出して頭の中で考えメニューを作る。大変な日々だったけど、毎週のパーソナルトレーニングのメニューを考えるのはとても楽しかった。


カズさんは甘いものとお酒が大好きで週に一度、体重や筋肉量、体脂肪率といった計測を行うのだが、増えている時は何か食べました?と聞けば正直に教えてくれるが「お彼岸だし、ぼたもちくらい食べちゃダメ?」だとか「昨日はトレーニング頑張ったしビール一杯で我慢したんだ。えらいだろう!」と私を楽しませてくれた。まるで孫とおじいちゃんのやり取りのようで、それは働くスタッフやその光景を見ていた他のお客様からも本当の孫とおじいちゃんのようだとよく言われていた。

カズさんとのトレーニングを一年ちょっと続けた頃、春先にピタリと来なくなった時があった。仕事が忙しいのだろうか、体調を崩してしまったのだろうか。そんな日々が二ヵ月過ぎたとき、夕方に突然、カズさんがやってきた。白いポロシャツにスラックスでこんがりと肌を焼き久しぶり、とニコニコしていた。トレーニングウェアに着替えて更衣室から出てきたカズさんを見て驚いたのは肘から上は真っ白い肌が見えていて、いわゆるゴルフ焼けをしていたことだ。

聞くと、トレーニングを始めてから久々にゴルフをやったら凄く楽しくて、膝も痛くないし、グリーンも最後まで歩ける、スコアも良くなって仲間とのゴルフが楽しすぎてジムにくるのをすっかりおろそかにしてしまった、といつものように正直に話してくれた。私は嬉しくて嬉しくて自然と笑みがこぼれ、その日は沢山カズさんの自慢話を聞いた。二ヵ月ぶりに会うおじいちゃんとの時間を埋めるようなとても幸せで温かい時間だったと思う。


私との日々のトレーニングでカズさんは病院での膝の注射はいらなくなり、膝を曲げるのがやっとだったのが二十五キロのダンベルを両手に持ってスクワットを三十回以上出来るようになり、階段の上り下りはもちろん、三十分の運動でもニコニコ笑えるほどの体力や、片足立ちは三十秒以上出来るようになった。他にもたくさん出来ることが増えて、ゴルフ仲間からは体格が良くなったことが褒められたり体重も落ちて筋肉は四キロ増えた。七十代とは思えないほどのイキイキした姿に心から諦めず続けてくださったことや私を信じてくれたことに何度もお礼を言った。


私にはおじいちゃんと過ごした記憶というものがない。両親のおじいちゃんはどちらも、私が物心がつく前に亡くなっていて、アルバムをめくれば小さい私がおじいちゃんに抱っこされている写真がいくつもあるが、その声も顔もぬくもりも何も覚えていない。小学生の頃に周りの友達が夏休みにおじいちゃんと釣りに行ったことやお出かけしたこと、好きなものを買ってもらったりそんな話を聞いては羨ましいと思っていた。私にはおじいちゃんという存在の愛おしさや温かさが分からなかった。でもカズさんと出会い、運動を通して一緒の時間を過ごし、好きな和菓子のお店のこと、ゴルフの話や、若い世代ではこんなことが流行っているんだよと教えたり、反対に昔の生活のことを教えてくれたり、出来ないことが出来たときの喜びを分かち合って、まるで本物の孫とおじいちゃんのような時間を沢山過ごした。温かいという気持ちはこういうことなのだと改めて知った瞬間だった。

この先の自分の人生でまだまだやりたいことがある私はジムを退職することを決意し、それをカズさんに伝えた。カズさんは「それじゃあ辞めるまでもっとたくさん来ないとな。」と言ってくれた。退職する日、最後の出勤はありがたいことに全ての時間のパーソナルトレーニングの予約が埋まり、辞める私に会うために、と普段来ない人まで駆けつけて、お花が届いたり沢山の言葉とプレゼントを受け取った。カズさんはあいにくその日は都合がつかず少し前にお別れをしたはずが夕方になって突然やってきた。驚いたがいつものように笑顔で迎え、トレーニングをしている姿を見守り帰る際、お店の外のエレベーターまで見送り。わざわざ来てくださったことにお礼を言うと「なに言ってんだ。ただ孫の顔を見に来ただけだぞ。」と笑ってくれた。そんなすぐにバレる嘘をつくカズさんにマスクをしていたけど私は、たったその一言でとびっきりの笑顔になれた



人を笑顔にする仕事は世の中に沢山ある。誰かの言葉で救われたり、誰かの想いが形になることで人の人生を変えることだってできる。私は沢山の仕事をしてきたが、働いていてどうやったら喜んでもらえるか、考えるばかりで自分が笑えるほどの余裕などきっとあまりなかったように思う。仕事を通して出会った方々に幸せにしてもらっているのは私の方で、笑顔にさせてくれたのもお客様だ。働いていてあれほど笑顔になれた瞬間はきっとない。顔を合わせて笑うことが減ってきた世界だからこそ改めて思う。働く原動力はお客様を喜ばせることだけを考えるのではなく、働く私がその物事に取り組み情熱を燃やし、輝き、弾けるように楽しく笑えているかなのだと。

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