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学校広報のヒント


この十年ほど、いろいろとやりつつも、大学や中高一貫校で仕事もしていました。
大学は情報の仕事でしたが、中高一貫校では、広報(PR)をしていました。広報は楽しかったです。
偉そうなことは言えませんが見たり聞いたりしたことも含めてお伝えします。

広報をしていた時の業務一覧です。
○ディレクション・進行管理業務
・広告(記事広告含む。受験雑誌や駅広告など、代理店対応含む)
・学校案内(企画編集、ライティング、ラフを含む)
・WEBサイト
・ノベルティーグッズ企画
・オープンキャンパスなどのイベント企画、登壇者調整
○制作業務
・ライティング(記事広告、サイト、その他取材依頼用)
・デザイン(学校案内、バナー、チラシ、説明会ブースコンセプト、ノベルティーグッズ)
・動画(学校紹介や生徒活動紹介のYoutubeチャンネル用撮影、編集)
・学校説明会用プレゼン資料・広報会議用資料作成
○広報業務
・SNS・ブログ構築運用
・学内外イベントにおける生徒取材
・取材応対(企画から立ち会い、日程調整から内容チェックまで)
・教員・生徒へのインタビュー、撮影、記事作成(学内、学外用)
・学校説明会において受験生個別対応
・受験生の学校訪問時における案内
・イベントや学内講演会の準備・運営業務

こういったことをしていました。
学校によってはこのうちの一部を代理店や制作会社に依頼していると思います。
私は好きでやっていました。

個人的に、広報の担当者のタイプには二種類あって、一つはマーケティング系の広報、もう一つにはエディター系の広報がいると思います(広報事務は除く)。
・マーケティング系の広報→経営や商売の視点から、顧客の動向を数値化して、分析し、効率のよい経営に貢献する。
・エディター系の広報→いわゆるコンテンツマーケティングを得意とする。SNSや動画、WEBサイト、学校で言えば学校案内のパンフレットなどの制作や進行に携わる。内部の取材を行い、その組織を社会に知ってもらう。
こう書くと、エディター系の広報の方がよりPR、public relationsに近い気がしますが、どうなんでしょうか。私は、マーケティングの方は疎いものでして。
私立の高校で広報に力を入れているところは、教員ではなく、職員に広報の仕事を任せているところも少なくありません。
聞くところによると、教育代理店の人や、通信社の記者がしているところもあるようです。
私も、かつては出版系で編集などをしておりましたのでその口になるかと思います。


広報のよさ

広報と言う仕事のよさを挙げてみます。
・いろいろな人とかかわれる
・組織全体を見ることができる
・自分の判断で動けることが多い
・取材や制作など、作り上げる楽しさもある
・嘘はつかないし倫理も守るけれど、組織や人の良いところを見出して伝えられる
・さらに、そうしたものをまとめ上げて内外に示す編集的な仕事に魅力も感じる
外部に対しての広報のほか、『内部広報』の意識ができると、内部の教員のモチベーションアップにもなります。教員と言うものはえてして個人事業主とも揶揄されるように、横のつながりも意外と薄く、学校全体のことをあまり理解していない教員も少なくないため、それらの教員に対して、今、学校がどのようなことをしていて、どこを目指しているのかを知らしめる効果もあります。

こういったところでしょうか。

広報に向いている人

広報に向いている人はどのような人でしょうか。
・トークが好きな人
・物事や人の良い面を見られること
・情熱と冷静さを兼ね備えている人
・動きのある仕事が好きな人
・どちらかと言うと浅く広く好奇心がある人


また、他の部署でも学校のため、教員のためではなく、学生・生徒のために仕事をしていた人、
そういう人なら、受験生が何を求めているか、見られると思います。
こういった人なら、広報のお仕事を作業や生活のためと言うのではなく、自分を支える仕事として行うことができるかと思います。
ちなみに、私が広報をしていて、一番楽しかったのは、取材から始まり、ブログを書いていた時でしょうか。一人でやっていた気楽さもありました。
描いていたブログは”エデュログ”と言いまして、教育系の大手代理店のインターエデュが運営し、当時、全国で400校近くが参加していました。
エデュログは学校の広報に効率が良く、ブログを投稿すると、インターエデュが運営しているサイトのトップページに掲載されます。
私が広報を始めた時、エデュログはすでに契約していたのですが、やる人がいないという状況でして、それなら私がやります、と言うことで、自由に始めました。
そうは言っても、私は教員ではありませんし、まだ学校のことも生徒活動のことも知らなかったので、学内で見かけた風景や、説明会の案内を書いていました。
4月のPV(閲覧数)は300だった気がします。
5月に入ってから、写真選び一つ、言葉の置き方一つで、伝わり方が変わることを意識しつつ、毎日書くようにしました。
PV(閲覧数)は倍になった気がします。
6月に入り、受験雑誌の取材で学食の取材がありました。
私が広報をしていた学食は直営であり、料理長からカウンターの人まで直接雇用で、生徒の健康のために材料費を惜しまないようなところでした。
私は、もちろん取材に立ち会いまして、改めて知るところも多くありました。
料理長のインタビュー動画も撮影し、記事が出るまでに間があったということで、毎日、学食のメニューをブログで紹介することにしました。
6月のPVは5月の倍になり、確か1500くらいだったと思います。
人が反応するのは、食べ物と人の顔です。毎日、私の昼食をUPしました。
7月に入ってからは、仕事にも慣れ、権限も増え、広報をコントロールし、受験雑誌に載せる記事の内容や種類もこちらで提案するようになりました。
夏休みに入って、毎日何を書こうか、学食も休みになり、と言うことで、学校の歴史をまとめた本を紐解き、自分なりの視点で、面白そうな話を記事にし続けました。
7月8月もPVは倍になり、9月で1万PVに到達し、10月はさらに増え、月間PVは全国一位になりました。
その後も1万PVと、10位以内は保ち続けました。
個人的には、広報の仕事の”おまけ”と言いますか、唯一好きにできる場と言いますか、そのようなスタンスでやっていまして、むしろPVの増加は、好きにさせてもらえるための取引材料に過ぎなかったのですが、結果として、ホームページや動画の閲覧数、外部合同説明会、学校説明会の参加者の増加となりました。
ま、そういう思い出話を前提としまして、ブログをどのような考えで書いていたかをお教えします。

ブログを書いていた時のポリシー

・平日は毎日書く。
投稿数が増せば、インターエデュのサイトに載る数も増し、自然と閲覧数も増します。
私は、月曜から土曜日まで仕事をしていましたが、少なくとも平日は毎日上げていました。
夏休みも毎日書くことです。通常、長期休暇中はイベントも少なく、従って書くこともなく、更新も減るため、閲覧数は下がります。
しかし、それでも無理やり書くことを見出して、書くことで、休んでいる他校よりも見てもらえる確率が上がります。
私の場合、そうして、通常は下がるはずの8月の閲覧数をむしろ上げました。
・単なるブログの閲覧者ではなく、”読者”になってもらう。
学校のブログと言いますと、単に学校の情報を発信する場と考えがちですが、せっかくそのような場を与えられているのであれば、単に見てもらうのではなく、続けて見てもらう、つまり読者になってもらえるような内容と頻度を考えたいものです。
そして、一度、読者になった人は離さないようにしたいものです。
・自慢や宣伝をしない。
読者になってもらうには、読んでいて楽しいものを書く。
少なくとも、自慢や宣伝をしないことです。自慢やせんでんは、読み手に負担がかかりますから。
普通の人は、気楽に読めるものを求めます。
いくら、生徒が頑張っている姿を応援するつもりで書いたところで、それが、単に親が子供を自慢するような書き方では、読者にはなってくれないと思います。
他人の子供の自慢など、利害関係がなければ、楽しいものではありません。
どのみち、学校の良いところを書くのであれば、結局は自慢になるに決まっているじゃないか、と思われるかもしれません。
しかし、進路実績にしろ、イベント開催にしろ、また生徒の頑張りにしろ、それを自慢や宣伝とはずらして、書くことは可能です。
文学でいえばずらしの手法です。
何気ないことを書いていながら、最後にさりげなく、説明会のお知らせを入れ込むわけです。
去り際に、スッと連絡先を渡すような感じですね。
例、
・原則として入試に触れないこのコラムですが、
こういう文章をわざわざ入れてから入試の話題に持ってゆく。
・みなさんは、広報戦略に基づいて広報をしているとお思いでしょうが、そんなことはありません。
私が個人的に気になったところを紹介しているだけです。

これは、読み手に気楽なブログてあることを示すための物です。

また、媒体を学校のブログと言うよりも、もっと個人のブログと思わせる手法もあります。
同じ宣伝しているものでも、個人のブログやYoutubeで宣伝しているものは見る人が多いようです。私は見ませんが。
それが自慢に聞こえないからです。
また、某大手通販化粧品会社が、単なるチラシではなく、広報誌を発行し、それが広報誌と言うよりも美容や健康雑誌のような体裁をとったことで、あたかも第三者のおすすめのような思い込みをさせることに成功した事例もあります。
人々は印刷物になっている時点で信用してしまい、そこに書いてあることが本当かどうかを確認することはほとんどしません。
学校の広報の場合、そこまでいかずともいいのですが、例えば生徒の活躍をただ結果だけ出すのではなく、多少は読めるようなインタビュー形式にする、更にトークが得意な生徒なら、対談形式にしてしまうことも行いました。
あくまで宣伝ではなく、広報をしているとの意識を持つこと、要は、読み手に自慢や宣伝だと思わせないことです。
昨今、企業のSNSを見ていると、あまりに個人的な好みや感想を書いているようなものがあり、それはそれで多くの支持があるようですが、あまり公の場ではしゃぎすぎるのもどうかと思います。
基本的には、広報は裏方ですし、SNSやブログは夜中のラジオのトーンでやるのがバランスが取れると思います。
「メディア掲載」などと言うページをつくって、そこだけに置くのではなく、ブログを含めて、そこかしこにメディアに紹介された記事を置くとよいでしょう。
ブログに学校のサイトの当該記事へのリンクを張るわけです。

・対象を考える。
読者を作りたい。では、どのような人が読者になってくれるのか。
老若男女、万人受けする作家などほとんどいません。
いくら売れている作家でも、ファンの客層と言うものはあります。
読んでもらいたい人に向けることがもっと効果が出ます。
では、中高一貫校、つまり中学入試において、最もターゲットとするべき層はどこにあるのか。
それは小学校中学年、高学年の子供を持つお母さんです。
中学入試において、最も影響力があるのは、受験生本人よりも母親にあるというデータもあります。
そのような状況であれば、当然、30代後半から40代の子供を持つ女性に読んでもらいたいわけです。
そうであれば、文体は柔らかめ、内容は、親しみのあるもので、たまに、80年代のネタなどを入れると受けます。
そういて、ある程度のターゲットを絞ると、読者もつきやすくなります。
・上げる時間を考える。
さて、ターゲットとする読者を決めたら、読んでもらいたい。内容も当然ですが、彼女たちはいつ読むのか。いつなら、彼女たちに負担をかけずに読んでもらえるのか。
それは、ずばり夜です。
家事が一通り終わった後、更には、塾の前で帰ってくる子供を待つ車の中、そうした”隙間時間”ならばふと読んでもらえる可能性が高まります。
私は、それを踏まえて、たいてい、7時くらいに投稿をしていました。
この時間に投稿するメリットはもう一つありまして、先生と言うものはたいてい朝方でして、他校ではブログの投稿を朝や昼間、又は放課後など、つまりは明るい時間にしているところがほとんど、というか、すべてでして、私のように夜に投稿すると、一度インターエデュのトップページに掲載されたものが翌日の朝までそのまま残っているわけです。これはたいていとかではなく、必ず残っていました。
これは先生のように翌日の朝のことを考える必要がない、広報専任の職員を置くメリットの一つし言えるのではないでしょうか。

・見栄えも含めて文字数を考える。
エデュログでもその他のブログでも、各学校がブログをやっていますが、字数はtwitter程度か、400字程度でないと、読まないでしょう。
知り合いの物でさえ、800字にもなれば億劫になる人々が多いというのに。
書くのが好きと言う人は、逆に書きすぎるきらいがあります。
ブログには、必ず写真をのせましょう。
それも真正面から撮る。土門拳のように。
バナーもcaptionも、wiredが参考になります。かっこいいです。
ネタとしてプライベートのことを書く場合、ただの消費者気分で書かないことです。
公の場で、人様に見ていただいていることを念頭に置く。

さて、ここからは少し私が大学の広報委員の教員や広報の職員とかかわったことを踏まえてお話ししたいと思います。
業界話の雑談になりますので、ブログのコツだけを知りたいという方はこの辺で切り上げてくださって結構です。


受験生を増やしたい

学校の広報の目的は受験生を増やすことです。目的に達するための目標が学校のよさを知ってもらうことにあり、そのための手段としてコンテンツがあります。
受験生を増やすには、広報よりなにより、進路実績を上げることが手っ取り早い。
進路実績を上げれば偏差値も上がる。偏差値が上がれば、受験生も増えるというわけです。
しかし、そうそう偏差値を挙げられれば苦労はしません。
内部をごっそりと、カリキュラムから何から変える必要があります。それで成功した例が広尾学園ですね。
ただ、普通、そこまで大胆な改革をすることは難しいときますから、進路実績のほかに、アピールポイントを探すわけです。
アピールポイントを探すと言っても、内部にいる人にはなかなか見出しづらい。
そこで代理店やコンサルタントに依頼をしたりするのですが、これはこれで内分人間ではないから、一般的なものしか提案しないし、作ったコンテンツもこれまた一般的な叙述や内容に終わってしまうことが少なくない。
そこで、近頃は外部から人を呼ぶようになりました。
代理店や通信社の記者や出版社の編集者など、もともとネタを探してまとめて伝えることに慣れている人たちです。
こういう人たちならば、内部のことも知りながら、なおかつ、教員のように内部にどっぷりつかっていないので、幅広い視野で自分の組織を見られることでしょう。
外注のクリエイターとは違って、内部の広報は教育理念を理解し、常に学校の情況を把握し続ける必要があります。
アピールポイントがなければ作ってしまおう、と言うわけで、制服を変えたり、校舎をリニューアルしたりします。
制服もファッションですからね、流行り廃りがあります。
アメリカの女子高を意識してか、夏服をポロシャツにするところも増えているようです。
偏差値の高い伝統校は昔のままですね。変える必要もありませんし、かえって、昔のままの方が、実力の高さを際立たせていますね。
校舎のリニューアルについては、最近の子供はきれいな家で育っているから、古くて暗い校舎などインスタ映え以外に需要はなく、そのために、立て直す必要も出てきます。
実際、高校でも大学でも、校舎を新しくすれば、受験生は増えるようです。
大学を例にとれば、今時、都心に近い校舎をビルにすれば受験生は増えます。しかし翌年下がるところもあります。効果はその程度ということもあります。
どのみち建てるなら、例えば、徹底して「エコシステム」を導入して、PRするとかあります。「エコキャンパス」と銘打って。そうすれば、補助金も増えるでしょうし。しぜんと、注目されるから広報の費用も浮くでしょう。何のために理系の学部があるのかわからない大学もありますし。全体が難しければ一つの建物でもPRにはなりますよ。
「果汁入り1パーセント」みたいなものですかね。それでも果汁は入っているわけですから、無果汁とは違うんです。
しかし、個人的には、「校舎を都心にしてビルを建てれば受験生が集まる」というのは20世紀的な考えだと思いますね。18歳人口が三分の一減ったら、学生数も三分の一減るとみるのが自然でしょう。偏差値が高い大学の人気は衰えない。その方が入学後、行為の自由がひろがる確立が高いからです。
中堅以下で減らないとみるのは、過大評価でしょう。「どのような校舎を立てたら何人くらい増えるのか」これをデータで示せるのならいいですけど。たぶん、一般の家庭が家を新しく買う。もしくは建てる前と同じ感覚でいると思います。新しい家に住んだら世界が変わると思っている感覚。ところが、新しい家に住んで「しあわせ」と思うのは、1,2年ほどなのですよ。皆さんも経験がおありではないでしょうか。
校舎を建てて、都心に集約すれば受験生が増えるという論理は、大学が郊外にあるから受験生が集まらないのであって、大学自体に魅力がないわけではない、という仮説に立っている。その仮説は正しいのでしょうか。郊外にあっても偏差値が高い大学はありますし。
都心に上級生が通い、郊外に下級生が通っているというシステムも悪くはないが、環境によると思います。
周りが田園都市、学園都市的な環境ならいいが、単なる日本特有のでたらめな開発の離れの果て的な郊外では、インスピレーションも批判的なものしか生まれなさそうです。
郊外から移転するのでも、1,2年次だけ都心で、3年から近くの有名な規模の大きい大学に通うという手もある。そういう提携も出て来るのではないでしょうか。
今は、中高はもとより、大学でも職員を新卒で採用していない所も少なくありません。将来、学生数の低下を見据えていることもありますし、その分、今は職員が足らないから派遣で賄っていますね。経営とはそういうものなのでしょう。
大学は、受験性を集めるために高校訪問ということを行っていますが、いわゆる派遣にやらせているところもあります。
営業やプレゼン経験のある者を募集しているようですし、そのうち大学にも「営業部」を作りだすかもしれません。

状況を見た広報

私立は、何のために存在するのか。公立ではできないことをやるために他なりません。公立が偏差値重視であるならば、私立は、教育重視という事になります。今はこれも当てはまらなくなってしまいましたが。
小規模な学校ならば、今迄のように中流層を顧客とするのではなく、エッジの効いた仕事をしている層に対応するのが戦略としてありますよ。
それならば、そう言った層は、ユーモアやかっこよさなどのセンスを見せれば、魅力が伝わるとおもいます。
中堅以下の大学で昔はバンカラで鳴らした大学が、今は女子が増えている。と言っても四分の一程度なんです。先生曰く、「バンカラならバンカラでいいんじゃないの」
単に女子校の人気が下がって、女子が増えただけというのもありまして、バンカラを売りにして、度胸と体力と礼儀正しさを前面に出すのも手と思われます。ヨーロッパに行くときは、必ずシベリア鉄道で行かなくてはならない。とか。
就活では受けると思いますけど、学生は嫌がりそうです。
近大あたりのこうほうを見ていると、大学の方が会社よりも、無茶ができるということに気がついたのでしょう。これぐらい無茶をしてもいいのだ、ということを学生に示すのにも都合がよい。しかし、まねしても仕方がないですが。


大学案内というメディアの活かし方

大学を紹介する物に、大学案内があります。
どこもA4判の似たようなサイズ、似たような内容ですね。
それは、学校案内をつくる専門業者に任せて作っているから。取材させて、作らせて、内容をチェックする段階で、教職員が見たって、個性が示せるわけがない。知らない人に打ち合わせだけで作らせているんだから。愛もないですし。
大学案内なんて、遊べるものの一つだと思いますよ。年に一度しかないのに。テンプレート的なものを作ってどうするのでしょうか。
制作物として当たり前の考えで作ればいいんですよ。
まず、大学案内は、それが、「アナログ媒体」であることを意識しないと。PDFデータは、デジタル用、それをもとにして、紙媒体をつくるのが大学案内。
今の大学案内は、PDFデータを紙に印刷して、製本しているだけ。
前にデザインの展覧会で見たドイツのカロリー本は、インデックスが製本段階でついていて、、開くと自然にどこかの項目のトップページが開くようになっていた。これを応用して、学部ごとに色付けをしてみるとか。そもそもA4である必要がないし。本屋に並べるんじゃないんだから、判型は自由に考えたらいい。地球の歩き方くらいの体裁がいいと思う。なんなら、「何々大学の歩き方」とか。しかも女子用と、男子用に分けて作るとか。「for girls」とか、異性の物も欲しがると思いますよ。
ふつう、大学案内って、そんなに読まないでしょう。
それが、異性用の物が存在していたら、逆に、そっちを熟読するんじゃないでしょうか。18歳の少年少女の心理を利用しないと。理論は半分でしょ。
表紙はきれいに金の箔押しや、コットンペーパーを用いる。そこで費用をかけたら、中の紙は、少し安いものを使用する。印刷所に聞いて、キャンペーンをしている紙はないか、そこはね予算との闘いですよ。それをしていないから、他と区別のない物が出来上がってしまう。
たとえば、手作りの案内、手作りの教育。というテーマでその年の大学案内を作れるでしょう。「使う写真は、すべて教職員と学生が撮影しました。手作りの大学案内です」とかね。
楽しそうなことは、自分たちでやって、面倒なことを業者にやらせたらいいのに。
テキストも自分たちで考える。
「先生ありがとうございました」なんて、大学案内の私物化で、そんなことは、謝恩会でやればいい。もう少し、やり取りについて、具体的に書けばいいけど。カッコいい人を出して、「私は、自分でこうやってこうやって、やりました、その際、どうしても進めないときにこういう具体的なサポートを受けて夢をかなえました」というようなことを示さないと。
写真にしても、学生を正面や斜めからポーズをつけてとるのではなく、何かをしている写真のみ使う。大学は、行為の場だから。黒板に書いている写真でもいいし、荷物を運んでいる写真でもいいし。授業を「受けている」写真はほとんど載せなくていい。スペースの無駄。
女子大の場合は、受験生が共学の半分しか取れないのは不利ではあるが、「女子大ならでは」というのなら、「キャンパスは女子だけ。関係者しかいない」、その安心感をPRしたらどうであろう。その辺は共学はまねできない。「学校に来ると、ほっとする。第二のアットホーム的な」という話を広報媒体で学生の人にコメントさせる。
デザインとは、内容の見せ方、伝え方であって、飾り付けではない。見せ方を考えているのだから、広報というより、広告でしょう。
学校案内をPR誌と位置付けることです。むしろ、自前メディアこそ、紙媒体を用いると効果的です。

職員はアーキテクト

こどもの時から、個が主張し、個が自分の好き嫌いで情報を集めることに慣れている。
一つの組織を「作り上げる」という考えが薄くなってきていることに気がついていない。
例えば大学にしろ、企業にしろ、今まで何十年も存続してきた組織を新たに「作り上げる」という考えがあって初めて、広報の戦略が成り立つのであって、その「作り上げる」という考えがないまま、広報を「見直し」と言ったところで、どこの共同体にも、個人にも、響いてはいかないだろう。
サービスでやってくれるのなら、かかわる人も喜んでくれる人も少なくなかろうが、その「サービス」が自分の組織が行っている戦略の一環として存在しているものでないのなら、それは、赤字事業であり、道楽であり、とどのつまりは、やる気のある人々を浪費しているだけですよ。
教員は、コンテンツを作り、提供するという意味でクリエイターと呼ぶ。学生は、それをもとにして、自ら実践するplayerとなる。そこには、遊びの意味も含まれる。そうした関係を踏まえて職員こそが、アーキテクトとなりプラットフォーム、場を作り、教員にインスピレーションを与えなければならない。問題は、今の大学の職員が、事務員と相談員と点検員しかいないところもありませんか。

講義の形態を見直す

時間通りに来て、講義を聞いて、帰るという形式は、大量生産時代に工場で働くためのやり方であって、そこに、賃金を受け取って、働くという産業革命以後のやり方が残っていると、トフラーが「富の未来」で書いていたと思いますが、定時に来て、作業をして、定時に帰るという今もってスタンダードな働きっぷりに即したものです。
それで、どういう人間ができあがるのでしょうか。人間は環境が重要であって、努力でさえ、環境が必要です。よく、家で勉強できる環境がないから、図書館や電車で勉強をしていた、という人の話を聞きます、それでも、人間関係や明日の暮らしで、ベッドに入ってまで悩まなくてもいい環境にいたわけでしょう。
学習経験をして、それを使うためには、日々何をしているか。人間の個性は、内にあるものではなく、どういう行動をとるかで示されるものです。
それならば、定時に来て、時間の間席に座って帰る、いっとき昼休みに「解放」されるだけ。その生活をつづけて、いよいよ65歳の定年という名の「解放」を目指す。それが「生活」と言えるものでしょうか。
映画を作れないのに、映画に対する評論能力を学んだり、Illustratorを使えないのに、インフォグラフィックに詳しくなったとして、文学部がそれで何をするだろう。
レジュメを授業前に配るのではなく、あらかじめ渡したり、映像なども、授業中に見せるのではなく、あらかじめ見ておくことは、できないのでしょうか。なんなら、東進の「衛星予備校」のように講義など、映像にしてしまって、授業は討論やワークショップにあてられないものだろうか。
授業だって、cotentsでしょう。
大学に入って、大学に入ったメリットを学生が語れるようでなくてはならない。なぜかと言えば、人は、自分をつまり、自分の行動を認めて貰いたいから。
大学を製品として考える。一から考える。ユーザーに対してのPRポイント。価格帯や対象。それを手にしたときにユーザーがどうかわるか。
ユーザーのニーズが分かったら、簡単なマニュアルだけでプロトタイプを作る。それを学生にやらせる。使わせる。そこで学生が躓いたところを改良していく。それで自律できる人になるプロセスの出来上がり。
学生便覧ではなく、マニュアルを作る。美しく、アイコン入れて。
学生手帳もいくらでも変えようがありそうな気がします。スマホと同型にしたりして。
学生のユーザー経験を考えるということです。


また、広報の話に戻ります。

広報で他人の心を動かす

広報には、学校の良さを伝える広報と、学校の存在を知って貰う仕事を広報があり、前者は教員がやるべきで、後者が、広報の仕事であり、広告プランナーを兼ねます。
極端な話、ブログは二つに分けてもいいと思います。
SNSにしても、私の場合、以下のように使い分けていました。
Facebook→学校の行事を伝える。受験生と同等以上に卒業生を意識する。
Twitter→受験生・保護者、又は塾関係者に対するお知らせ。
Instagram→イベントや行事の生徒の生き生きとした姿を伝える。受験生向け。
こういった具合でした。
塾の先生ですが、中学受験では、保護者が決めるわけですが、その際、公立の教員より、塾の講師の情報を信用するらしいです。時代は変わりました。
ブログに関しては、私がエデュログで学校のことを広めるために書き、教員がgoogleのブログを担当し、生徒活動を書いていました。
真面目系とおふざけ系と分けるわけです。

読まない人にどう読んでもらうか

お腹が一杯の時に、食べ物を出されても、心が動かないのと同様、メッセージ性や指示にうんざりしている人々に、メッセージ性の強い広告してもしらけるだけ、というのはYoutubeなどで経験していることと思います。
「メッセージを伝えん」という行為ではなく、自分が面白いと思うもの、よいと思うものを好きでやって、それを共感する人がいるかどうかだけ。ただそれだけのことだと思いますよ。
メッセージを伝えやすくなっている状況だからこそ、メッセージが溢れ、メッセージ的なものは、一先ず顧みないようになっていると思う。
日常的に「しらけている」人々の心をどう動かすかを広告や教育はやっているわけで、その点では共通点があります。
テキストを読まない人々に対して、文字を連ねた学校案内が効果があるのでしょうか。スーツのネクタイと同じ物でしかないのではないでしょうか。
いっそ、写真とキャプション、それにインフォグラフィックをメインにした学校案内の方が効果がある気もします。何より学校案内のデータブックは、infographicを使うとよいでしょう。
もう一つのやり方は、コンテンツを多くする、つまり、エピソードやネタで作るというやり方はどうでしょうか。
動画で同じシーンが5分も続けばもう見ないように、学校案内も、見開きの場合、テキスト情報は、1割程度にしないと見ないのではないか。
むしろ、オール断ち切りで、写真の真ん中に縦書きで入れるとか。

内部の進展の数や質に、広報のスピードが追いついていないという事もある。その場合は、自分を顧みる間がないのだから、効率や統一したプロモーションからは遠くなってしまいます。
広報がすべてやろうとすると、「広報スピード」が遅くなる。そこで、コンテンツサイトが増えているのですが、媒体の選定を取り違えていることもあると思います。そこは編集者としての能力が必要になりますし。
名を知られるには、電車広告、ただ、広告を沿線に打つようなやり方ではなく、まずは、地元で有名になっていくやり方の方が、効果的だとおもいます。
たとえば、学生に地域を紹介する冊子を作らせる。学報などよりも、ずっと読まれるでしょうし、駅の広告などより、ずっと効果的でしょう。

広報と宣伝の違い。評判を誰が広めるのか

特に教育機関においては、区別がいると思います。プロモーションと、PR・イメージを広めることとの違いです。
自分で、消費者やお客に何をしてほしいのかを伝えるのが、宣伝だと思います。特定の商品を買ってほしい、入学してもらいたい、などである。
自分たちの活動を広めて、第三者にあの組織は素晴らしいと話してもらうように持って行くのが広報です。これは、組織の活動を示すことによって、自分たちの良い評判を伝播させることを目的とします。
伝播するのは、会社やお店であれば、お客さんであり、大学であれば、学生という事になります。
この違いを特に教育機関の広報が理解しているかどうか。
ポスターなどの広告や記事広告をかなりの額をかけてやるのであれば、学生にフリーペーパーや学校案内を作らせた方が、これからの広報としては、効果があると思われます。

教育機関であり、パブリッシャーでもあるという意識・ 読み手を作るという事

教育機関にしても、そことかかわりたいと思うから、受験するわけでして、かかわりたいと思わせるようなコンテンツをサイトで示さなくてはなりません。
そこで、教育機関であっても、パブリッシャーの意識がいると思うわけです。つまり、自前メディアの役割を果たすという事になる。
そこで、広報担当は、エディターが向いているということになります。
組織にある物と物をどうeditingしてゆくか。
保護者や受験生は、実際のところを知りたいのだから、「ガラス張り」ではないが、学校の内部を見せるということです。
広報というものは、受験生や保護者の疑問に応えるべく、実際のところを示す、いわゆる「見える化」をして行くべきで、そのために、まずは、どのような先生が、どのような方針で、どのような教え方、可能ならば、どのような問題を出して、どのように考えさせて、解答まで導いていらっしゃるのかをあらわして行きたいものです。
「この先生に習いたい」と思わせる手法は、東進ハイスクールも使いましたね。
そのためには、先生の得意とする分野を動画にしてUPするといいでしょう。

どこを向いての広報か

内部を見せるということなら、受験雑誌の取材風景を写真にとって、ブログにあげる、というやり方もあります。
アイドルグループのメイキング映像や取材を受けている姿をSNSにUPすると受けますよね。それと同じ手法です。
押し付けの期待ではなく、やりたいことを伸ばす。裏ではコントロールするわけです。
内部にあるネタを探すということですが、これは、まず行動することです。
何かをやっているうちに課題が出てきます。プログは、公開ネタ帳ということですね。自分の書いたことから思いついて企画を考えることもあります。
近大の受験生が増えたのは、何より、自由で柔軟なところを見せたためでしょう。
広報も、受験業界に対してではなく、普通にしたらどうでしょうか。
受験業界は、狭い。受験業界を見ているのは、受験生と保護者でしょう。
結局は、進学実績と偏差値で探すことになるでしょうし。
その対象相手に合わせていては、いつしか自分のPRポイントを忘れてはしまわないか。
バズコミュニケーションを目的に、普通の社会に対して広報したらどうでしょう。
広告にしても、すでにある媒体に滑り込ませる。海外のメーカーが日本で売ろうとする場合、すでにある販路を利用する、それと同じことをすればどうでしょう。
当然、内容も、自慢のような広告やブログでなく、興味を惹くような物となるわけです。
選抜クラスばかり見せるのではなく、普通の生徒を見せるのも手です。私から見て、選抜コースなど排してしまって、すべて普通のコースにして、日東駒専にたいてい受かるようにしたらどうかと思うこともありました。
実際に生徒のしていることを示す。メイキングビデオ的にしてみる。教育業界の広告が、自慢になりがちなのは、代理店がよいしょするのと、教員の職業病的なものもあると思います。
特に、ともに仕事をする意識の低い、また、効果の結果さえ出してこない代理店と取引して、意味があるのかと思います。
大学案内は、カタログにするのではなく、雑誌にするというのはどうでしょう。情報の数量をしぼって記事にするわけです。
すでにメインの大学案内とは別に雑誌の形態を取り入れてキャンパスライフを紹介するようなことをしている大学もあります。
情報の数量をしぼって記事にするということです。大学がその人の生活のどの領域を占めているのか。今ある資源で大学をゼロベースで作ったらどうなるのか。たとえば学科は。
むしろ伝統ではなく、新興企業のような考え方でやったらどうでしょうか。どのみち、伝統は捨てきれないでしょう。大学の伝統がどこにあるかなど、むしかえだすと、対立が生じるでしょう。宗教の解釈のように。
選択に慣れている人びとは、常にお得な物を求めているわけですから、ただの自慢では通じないでしょう。
「すごくいい学校に見える」というコンテンツを作るにはどうするのか。
ノベルティーグッズも、業者に任せるのは、ただのクリエイションにしかならない。
教育機関の場合、生徒にデザインをさせ、ICTを文房具と同じように使っていることとか、生徒のアイデアを元に作品までサポートする学校の姿を見せたりすることに使う。広報のプラットフォームの上で、クリエイションを置かなければならないでしょう。
例えば有名大学の学園祭でなどでノベルティーグッズが売られ、主に他校の大学生が買って帰るそうですが、それは、ブランド信仰によるものでしょう。
それとは違い、東大の学園祭は、高校生が多く、東大のグッズを買って帰るそうだが、そちらは、お守り、寺社に詣でるのと、変わらぬ感覚ではないでしょうか。
東大の名入りのグッズを持つことにより、自分を東大生のカテゴリーに入れているのですね。
ともあれ、私学のアピールポイントは、塾ではできないことをやる、と言うことです。
「うちの学校は、何をやっているんだろう」と思わせるくらいで。
「学生を混乱させるためにいる」というアートスクールの教員の意識を見習いましょう。
仕事は、ゲーム感覚でやるものと言っても差し支えはありません。
資源や情報を集めて、仲間を集め、武器や道具を開発し、挑むわけですが、結果はガチャガチャみたいなものです。
進学実績を出すために、塾と化す。それなら塾で良いのではないのか、ということになる。ほとんどが進学実績をもとにマーケティングしているのに、同じことをしていて勝負になるのか。
進学実績をもとに広報ということは、大学へ向けてのことですが、高校が大学までの準備機関ではなく、高校ならではの生活もあるのではないのか。それを出せないだろうか。

広報担当者も育成が必要で、それには、場数を踏ませるということになります。
大学のPRポイントはどこなのか、と皆で考える。
自分たちで良いと思い込んでいところを出したところで、他はもっと上であったり、同じことをしている場合が少なくない。
そうではなく、「これならどこにも負けない」というところを出す。もしくは、コンテンツを「どこにも負けない」ように編集して出すことです。
レベルを受験生向けではなく、一般向けに書く。受験と違うことを描けば書くほど良いと思います。書けるのなら。
ブログは、広告ではなく、CRMです。
コンテンツマーケティング→広報→説明会及び学校訪問→受験生の流れです。


見る人に優しく

人間の脳はパターンで認識しているそうです。
先進的な取り組みを前時代的な広告手法で扱っていたら、それは見る者に前時代的な取り組みと認識されやすくなります。
記事広告にしても、業者が関わるものはおおよその範囲で結果がわかる。そう言うものは、通常の広報担当者がやれば済む。むしろ、日常に埋もれて誰も気がつかないことを見出し、エディティングしてゆくのがアーティスト的視点でプラットフォームを作ると言うことなのではないのでしょうか。
読ませなければならないサイトは、見る者に負担をかける。
写真しかないものは、ただのフォトギャラリーにしかならない。
写真とテキストはポイントのみを載せる。
「読ませる」負担を減らし、楽に見て、興味を引く内容にする。
写真とインフォグラフィックを中心に。
いっそ、ブログではなく、WEBマガジンにしてしまう。
学校のサイトなのに「クリスマスを満喫する六本木ヒルズめぐり」とかいう記事があったら面白い。
他の学校と自分の学校との長所比べをしても仕方がないですし、弱点の比較が重要となります。
また、広告を打ち出してゆくのではなく、PR活動が柔軟にできる空きスペースが重要。プラットフォームを作るのもそうだし、仕事の担当をきっちりしないというのも同じ。
そういつたものを熱意を込めてやるわけですが、外に向けては静かに行います。
広報の基本は、倫理と、後は自分のために動かないということ。
自分の広報をしているのではなく、他人の広報をしているということです。
広報って、面白いことを考えるというのではなく、正攻法をしていればいいだけと言うことに行きつきます。
書くに際しても、話すに際しても優しさは必要なのです。人の際に接する行為なのですから。
組織にとって、商品はどれなのか。教員なのか、設備なのか、広告を商品広告として出すということです。
教職員が学生のために何をやれているのか、それを言語化するわけです。
授業ひとつとっても「日本一です」とばらばらに示すのではなく、キーコンセプトで示す。それが、designというものでしょう。

大学を製品として考えるわけです。一から考える。ユーザーに対してのPRポイントはどこにあるのか。
学生便覧ではなく、まともなマニュアルを作る。美しく、アイコン入れて。手っ取り早く学生にも教えてもらうのです。
内部のものが、内部のために作るわけです。

プロジェクトストーリー

いつ頃からかわかりませんが、気づけば、企業の人事サイトで会社のプロジェクトをストーリー仕立てにして紹介する手法が取り入られています。
それを名づけて"プロジェクトストーリー"と言うようです。
テレビ番組で組織のプロジェクトを紹介するようなものがあり、そこではサラリマンにスポットがあてられていました。
それの手法を会社の紹介にしかし、新卒、既卒問わずに、優秀な人を集めようということです。
テキストと写真だけで構成しているもの、また、短めの動画を加えているもの、いろいろあります。
この、"プロジェクトストーリー"は、外部はもちろんのこと、内部広報としても役に立ち、組織内の人間が、いま、自分の属している会社が何をしているのか、なにを目指しているのかが、より分かるようになり、意欲もわいてくるものと思います。
ひるがえって、大学などでも、学内では広報に限らず、様々なプロジェクトが行われています。
なかんずく、"改革"と称するようなレベルのプロジェクトでは、かなりの期間と人、そして費用が割かれます。
そこで、こういったプロジェクトを"プロジェクトストーリー"として、まとめあげ、学内外に紹介してみてはどうでしょう。
広報一つにしても、広報を一新するために、学内から希望者を募り、更に自分たちで、広報の媒体を作り上げる。
そこには機材やアプリケーションの使い方、また、写真や文章の見せ方も学ぶ必要が出て来るでしょう。
こうした一連の業務を、"ストーリー"としてまとめ上げるのです。
単に期末の自己評価シートとして提出するだけでは、意欲も上がりませんし、せっかく組織として動いているのに、ただの個人的な業務として片づけられてしまう可能性さえあります。
それを"プロジェクトストーリー"としてまとめあげれば、なによりわかりやすい業務保報告書とはならないでしょうか。

中学高校にしても、大掛かりなものとしては、校舎のリニューアル、制服の変更などがあるでしょう。
単に"制服変更委員会"とプロジェクトを立ち上げながら、その結果をWEBサイトや学校案内の1ページで簡単に"報告"するだけでは学内の意気も上がらないと思います。
これは余談ですが、以前、制服をリニューアルした学校が制服がいよいよ完成し、さて、校内で撮影しよう、では創立者の銅像の前で、新しい制服を着た生徒を立たせて、撮影しよう、と言うことになり、できあっがった写真をホームページにあげてみれば、ピントが生徒に合わせてあり、後ろの銅像がボケてただのぼやけた背景となっていたというのもあります。
こういうことも、"作業"としてではなく"仕事"として考えている人がいれば、違う写真を撮れた気もします。


広告のヒントというかネタ

求人広告風の受験案内。
日めくりカレンダーの行事案内。
「大学生活、これだけ並べても足りません」という具合に、言葉を並べたポスター。
学問的成果をグラフにして広告にしてみる。
正義実力…などのことばを配して、丸や四角で言葉を囲む。あなたはどれを手に入れる? というコピー。
ここどこ? コンピューター教室、学食、図書館
one step ほんの一歩の違いだよ。
文学科なら積んだ本を抱えて、歯を食いしばって草原もしくは砂漠に建つポスター「これが、○○(大学名)の文学」
教科書に出てきた理論を10分単位で映像化
18歳、今からならどんな人にもなれますよ。

学生のメモやノートや履歴書を適当に置いてポスター。


言葉で書くということ

最後に、思考が言葉でなされる以上、その言葉を持って商売をすると、身体感覚までずれてゆくのだろうかと思うことがあります。
写真で現実を切り取ったなら、それはフィクションであるし、タイトルを付けたならば、なおさら、現実と乖離するでしょう。
文章は自由に書いているものではなく、ある言葉の次に来る言葉は、必然的にある言葉が来る。それができたときは、自然な文体になります。
私が書く時に意識するのは、すでに紙の上に置かれた言葉が次の言葉を自然に示してくれる状態です。
誰かに見せるものであれば、フィクションという意識で書いた方が伝わりやすいと思います。
たとえESでさえ。
文章は、文末が最も難しい気がします。体言止めは楽をしている感じですし、「なになにだ」は、俗な感じがします。擬(まがい)古典体の「である」は、小説の文体の気がします。
現状、使える文末がデスマス調しかないという。ならば、デスマス調の文体で書くしかないのです。
個人的な葉普通の言葉を普通に用いて、しかし普通でない繋ぎ方をしてみたくて書いていました。
デスマス調を「である」調並みの言文一致体にする試みは、「である」調で鍛えて来た、自分のスタイルさえ変える試みとなります。

これからも”勝手に広報”

もう20年以上も前、確か美術手帳の記事で、『アート作品を作らないアート集団がウイーンあたりにいる』と言う話を読んだ覚えがあります。
作品を作らずに何をするのかと言うと、自治体や学校などに半年から一年滞在し、アートの手法を以て組織を変革するといいうことをしているとのことでした。
私も、その内部にいる人では気づかないようなものに気づき、その場の人々を励ませるような広報の仕事をしたいと思っています。

参考

エピックコンテンツ・マーケティング ジョー・ピュリッジ 2014日本経済新聞社

おまけ

これは、"夜の学校説明会"と言う言葉にロマンチックなものを感じて書いたブログの一部です。
こういう文章に夜の学校の写真も付けました。

夜の学校、夜の教会、夜の東京タワー
夜とつけるだけで、タイトルに惹かれてしまいそうです。
夜は、人を引き付け、そして呑み込もうと、誘ってきます。
誘惑に対する抗いがたまりません。
ジェットコースターなどとは比べ物にならないのです。
そうでした。11月に夜の学校説明会というタイトルで、説明会を行います。
霜月十七日の夜、黒き夜の月は冴え切って、星のきらめきそむるころ、東京の灯がちらちらと目の下広がってゆく、その夜に「夜の学校説明会」ですよ。

タイトルに魅かれてきてくれませんかね。




おまけその2

以前、ICT教育ニュースに投稿したまじめ系文章です。

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