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文学フリマ東京37『REBOX5 特集 テン年代殺し』刊行予定

文学フリマ東京36お疲れさまでした。たいへんな賑わいでした。購入の同人誌にざっと目を通し、年々誌面のクオリティが高まっている印象を受けます。じっくりと読んでいこうと思います。さて、早くも次の企画が動き出しております。今回は簡単な趣旨と序文の下書きをお送りします。
11月11日開催の文学フリマ東京37にて、メルキド出版は『REBOX5 特集 テン年代殺し』を刊行予定です。
『REBOX』(リボックス)は2021年創刊のサブカルチャー誌。『どくしょびより/書物書簡』(2021)、『反映画』(2021)、『ウエルベック』(2022)、『ファウスト系』(2022)という文学やアニメに特化した編集方針で運営してきました。編集長は創刊号・第4号の沖鳥灯、第2号の三千周介、第3号の前川卓の交代制でした。
今秋の第5号はディケイドの2010年代を扱います。特集の趣旨「テン年代に思春期を過ごした当事者たちが、時代の象徴性に抗い、個人的な体験に即してコンテンツを自由に語る」に基づき、創作・論考・エッセイを持ち寄ります。加えて「この単巻ライトノベルがすごい!」を併録予定。年代を問わず単巻ライトノベルから選りすぐりの「名作」をご紹介します。
本誌は沖鳥灯と前川卓の共同編集となります。刊行までどうぞよろしくお願いいたします。
以下に本誌の序文の下書きを掲載します。ご笑覧ください。

 序文
 趣味(テイスト)の階級闘争──外との関係を結ぶために
 沖鳥灯

 2010年に
 なんか全部ぶっこわれた
 マシーン!
 コーネリアス「NEW MUSIC MACHINE」

 本誌の特集は「テン年代殺し」。二〇一〇年代はことさら「震災・テロ・自己閉塞」などと代理表象された。新海誠・庵野秀明・村上春樹というテン年代(一〇年代)から二〇年代のディケイドのアイコンを複数化の「趣味」(テイスト)で撃つ試みをしたい。
 ところで夏目漱石は「趣味判断」を容認した。曰く「趣味は人間に大切なものである。趣味がなくても生きておられるかもしれぬ。しかし趣味は生活の全体にわたる社会の根本要素である」。漱石の「趣味」(テイスト)の問題は、本誌の趣旨「テン年代に思春期を過ごした当事者たちが、時代の象徴性に抗い、個人的な体験に即してコンテンツを自由に語る」に大きく関わっている。なぜなら研究と批評という二項対立の第三項として「趣味」を掲げるのだから。だが留意しておこう。「趣味」とは「個人的な体験」つまるところ「実存」と併置されるものだ。「実存」とは「生存」の対義語であり、ニーチェの「人生を危険にさらせ」というテーゼと響きあう。けして「生き延び」のための「趣味」ではない。「生き延び」から「階級闘争」へと領域の拡大を志向するものなのである。
 テン年代というユーモアを欠いたディケイドへ「グッド・テイスト」「バッド・テイスト」を乗り越えた「階級闘争」で仕掛ける。それは社会の同質化と個人の卓越化の対立への第三項たりえるのだろうか。
 新海誠『すずめの戸締まり』(二〇二二)は二〇一一年の東日本大震災の総括を試みた野心作だが、日本とくに東京近郊のテン年代の当事者たちへ本作は「語りえぬもの」=「表象不可能性」の応答になったのだろうか。むしろ震災被害者あるいは地方避難者への想像力に賭けた本作は都民の残酷な忘却装置の役割を果たすことに留まってはいないか。それはまるで宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』のように映る。
 3・11の五年後の二〇一六年『君の名は。』『シン・ゴジラ』などで二〇二二年同様、未曾有の災害は総括された。だがしかし、「趣味」(テイスト)の問題はあったのだろうか。一面的な趣味は社会の反映とはいえない。
 また庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン』(二〇二一)、樋口真嗣『シン・ウルトラマン』(二〇二二)、庵野秀明『シン・仮面ライダー』(二〇二三)はアクションのぎこちなさを覚える。  
 そして村上春樹『1Q84』BOOK3(二〇一〇)、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(二〇一三)、『女のいない男たち』(二〇一四)、『騎士団長殺し』(二〇一七)、『一人称単数』(二〇二〇)、『街とその不確かな壁』(二〇二三)はセルフ・パロディの域を出ない。
 他方で一九六九年が舞台の村上春樹『ノルウェイの森』(一九八七)は「政治の季節」の当事者が「語りえぬもの」=「表象不可能性」を「趣味」(テイスト)に託して提示した傑作である。つまり村上春樹が試みたことは学生運動という時代的な研究・批評と「趣味」(テイスト)の反時代的思考を衝突させたのだ。
 ひるがえって新海誠・庵野秀明・村上春樹を研究と批評の闘争から解放し、「趣味判断」で鑑賞した場合、無数の余剰的なコンテンツが浮上しないだろうか。新海誠・庵野秀明・村上春樹を時代的に論評することから遠く離れて、あくまで「個人的な体験」=「趣味」として語り出すこと。その語りは感動ポルノの同質化から複数の反時代的思考を生むだろう。
    マジョリティへのカウンターとしてのマイノリティをマイナー文化で表すことはそう単純ではない。クローズドな共同体による思考の共有はマイノリティの暴走を生む。歴史を紐解けば新選組、旧日本軍、全共闘、オウム真理教、原発、コロナテロ、ホモソーシャルなど枚挙に暇はないのだから。ゆえに「テン年代殺し」のテーゼの重要度は増す。『シン・エヴァンゲリオン』は「父殺し」の物語だった。村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』(二〇二〇)は父親のルーツ探しであり、『シン・仮面ライダー』は父からの継承と分裂を描いた。そして『すずめの戸締り』は不在の父からの「自分探し」であった。七〇年代末の「巨大な敵」(『機動戦士ガンダム』)としてのジオン軍は二〇年代において「父と子」に回帰した。ではテン年代の「敵」とはなんだったのか。その答えのない問いは本誌の中に集まっていることだろう。序文の役割はその点を示唆することに留める。真の敵とは誰なのか。その謎を追うにはぜひ頁をめくってほしい。「父殺し」の再演の現前で「テン年代殺し」を目撃し、「内向き」を引き受ける。外との関係を結ぶために。

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