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多様な人々が訪れる史跡へ-千田先生のツイートを拝見して考えたこと-
一昨日流れてきた、考古学者の千田嘉博先生のツイート。
静岡県島田市の国史跡諏訪原城跡では、城跡を訪ねて歴史を体感する人の多様性を尊重する視点に欠けた史跡整備をしていました。現地で呆れました。復元木橋になぜスロープを設置しないのか、諏訪原城を訪ねて歴史を体感するのは健常者だけでよいと、島田市役所も文化庁も考えているのでしょうか。 pic.twitter.com/p9W93g5pb4
— 千田嘉博_城郭考古学者 (@yoshi_nara) September 15, 2022
語気強く、多様な人々の見学を妨げる整備手法を批判されておられました。
それに対する意見は、千田先生に賛同するもの、批判するものさまざまなものがありました。
私もこのツイートを拝見して思うところがあったので、ここで書いてみます。
まず、基本的には千田先生のご意見に賛成します。多様な人々が史跡に触れることができるようにする必要がある。しかしそれは「障害者」に配慮する必要があるかどうかという見方ではなく、多くの人が史跡に触れるためにはどのような整備が必要か、という点を考えていくべきと思います。
というのは、障害者は社会によって生み出されるものだからです。
数年前「文化施設におけるアクセシビリティ研修」に参加する機会がありました。これは、障害をもつ人々が文化施設を楽しむために、どんなサポートや工夫があるとよいかということを学ぶ研修でした。
その際講師の方から「障害者は社会によって生み出される」という発言があったのです。
わたしは「??」となりました。歩けない、目が見えない、耳が聞こえない、これらは社会に関わらず障害ではないの?
この発言、実はこういうことだったんです。
例えば、こういう場面を想像してみてください。
2階建ての家がある。2階に上がるための階段はない。
この場合、歩けない人も、歩ける人も、どちらも2階に上がれないのだから、「障害者」という位置づけになる。
では、2階に上がるための階段をつけてみよう。
歩ける人は2階に上がれる。歩けない人は上がれない。この場合は歩けない人だけが「障害者」という位置づけになる。
それでは、2階に上がるためのエレベーターをつけてみよう。
歩けない人も、歩ける人も、どちらも2階に上がれる。この場合、両方とも「障害者」という位置づけにならない。
まとめると、
人間誰しも身体能力上できることとできないことがある。「障害」は、その「できないこと」に起因するのだけど、社会がどこまでその「できないこと」をサポートしているかによって、障害の有無の線引きが決まる。
これが「障害者は社会によって生み出される」ということ。
そのようなものの見方に触れる機会がなかったわたしは、衝撃を受けました。
さて、ここで千田先生のツイートに上げられた写真を見てみます。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/87038050/picture_pc_873992540dec2dd01fee2fabc003ffee.png?width=800)
千田先生のツイートをめぐる議論の中で、何人かの方は遺跡のオリジナル性について述べておられます。山城は防御施設なので人が入りにくいのは当然、障害者(車いす利用者)に配慮して当時無かったものを必要以上に付け加えるのはいかがなものか、と。
とはいえ、「健常者」が見学するに当たっても当時なかった施設、設備は必要なわけです。上記の写真のように、復元木橋には手すりも必要です。車いすを利用する方に必要な設備だけ「当時無かったもの」として排除するのは、わたしは反対です。
いわゆる「健常者」「障害者」の線引きに関わらず、わたしたちには身体的にできること、できないことがあります。それを踏まえて、多様な人々が訪れ、歴史を体感できる史跡整備をどのように進めるか。あわせて、史跡の持つ歴史的価値を損なわない史跡整備のためにはどうしたらいいか。多くの人々の議論によって、いい方向に進められたらいいなあと願っています。
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