田中ノブタカ

地域の歴史と人々をつなぐ仕事をしています◆【関心のあること 】奈良時代/正倉院文書/荘…

田中ノブタカ

地域の歴史と人々をつなぐ仕事をしています◆【関心のあること 】奈良時代/正倉院文書/荘園/幕末/松平春嶽/街道/古いまちなみ/近代化遺産/近代建築/文化と観光/歴史と観光/観光ガイド/まち歩き/ミュージアム/アート/演劇

最近の記事

多様な人々が訪れる史跡へ-千田先生のツイートを拝見して考えたこと-

 一昨日流れてきた、考古学者の千田嘉博先生のツイート。  語気強く、多様な人々の見学を妨げる整備手法を批判されておられました。  それに対する意見は、千田先生に賛同するもの、批判するものさまざまなものがありました。  私もこのツイートを拝見して思うところがあったので、ここで書いてみます。  まず、基本的には千田先生のご意見に賛成します。多様な人々が史跡に触れることができるようにする必要がある。しかしそれは「障害者」に配慮する必要があるかどうかという見方ではなく、多くの人

    • わたしだけが、知っている。福井城の百間堀をまちあるき!(2)

       前回に引き続き、福井城百間堀の痕跡を探りながらまちあるきをしていきます。前回の記事はこちらでおさらいを。  さて、今回ご紹介する1か所目はこちら。ファミリーマートの横にビルの入口があります。そこを入っていくと…  西から東に向かって床面が不自然に傾斜している様子が見られます。これは一体どうしてなのか…  ひとつの可能性として考えられるのは、かつて百間堀だったのでは?ということ。堀を埋めた時、水平になるまで埋めきらなかった、あるいは埋めた後に土が締まって、その分沈んだとの

      • わたしだけが、知っている。福井城の百間堀をまちあるき!(1)

        【福井城の百間堀とは?】  福井城は、徳川家康の二男である結城秀康が築いた城です。天下普請によって造られ、家康自らが縄張りしたとも言われる立派な城でした。しかし明治維新とともに埋め立てが始まり、当時の姿を残すものは本丸の石垣だけになってしまいました。  でもまちなかを歩いてみると、その痕跡が窺えるところもあります。今回と次回は「百間堀」の跡をたどって、その大きさを実感してみたいと思います。  福井城の「百間堀」とは、城内を南東と北西に分けて足羽川へと繋がる、大きな堀のこと。

        • 「ホントの歴史」って楽しい!子どもたちの心を動かした話

           前回の記事で「歴史を伝える仕事はライブに似ている。話している自分と聞いてくれる人、相互に刺激を与えあう楽しさがある。」ということを書きました。今回は、そのことを強く感じたできごとについて書きます。  数年前のこと、ある小学校で出前授業をしました。その小学校の学区を南北に貫くように、一本の道が通っていました。  北陸道。  奈良時代に都と北陸諸国をつなぐ道として造られ、人とモノと情報を運んできました。江戸時代には、福井藩主は参勤交代のためこの道を通り、中山道・東海道を経由

        多様な人々が訪れる史跡へ-千田先生のツイートを拝見して考えたこと-

          【noteはじめます】出発!歴史の楽しみ方を探る旅へ

          【はじめまして!】  はじめまして。田中ノブタカといいます。福井県で歴史にかかわる仕事をしています。  子どもの頃から日本史が好きでした。実家には『漫画日本の歴史』が全巻揃っていて、繰り返し読んでいた子ども時代でした。その後大学、大学院で日本歴史を学び、縁あって福井で働いています。  さまざまな「歴史にかかわる仕事」に携わってきました。遺跡の発掘調査、自治体史の編纂、重要文化財指定の事務、文化財の修理、文化財を保護する団体の支援、歴史資料の収集、博物館展示の企画、歴史講座、

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