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わたしだけが、知っている。福井城の百間堀をまちあるき!(1)

【福井城の百間堀とは?】

 福井城は、徳川家康の二男である結城秀康が築いた城です。天下普請によって造られ、家康自らが縄張りしたとも言われる立派な城でした。しかし明治維新とともに埋め立てが始まり、当時の姿を残すものは本丸の石垣だけになってしまいました。
 でもまちなかを歩いてみると、その痕跡が窺えるところもあります。今回と次回は「百間堀」の跡をたどって、その大きさを実感してみたいと思います。
 福井城の「百間堀」とは、城内を南東と北西に分けて足羽川へと繋がる、大きな堀のこと。もとは吉野川と呼ばれた自然の河川で、これを堰き止めて堀にしたと言われています。絵図で確認すると、青々と水を湛えた百間堀が本丸の南に横たわり、威圧感を与えています。

文化8年(1811)福井分間之図(松平文庫)
赤丸は今回取り上げた、百間堀の痕跡。

  江戸時代の百間堀の様子。今の福そばさんの辺りから本丸の方向を見ると、このように百間堀が広がっていたようです。本丸側には高石垣が築かれるとともに櫓も見え、防御力はとても高そうです。また、戦のことを抜きに考えると、水面に浮かぶように見える天守閣は、さぞかし壮観だったでしょうね。

福井城旧景「百間濠及福井城東面」(福井市立郷土歴史博物館蔵)

【今見られる百間堀の痕跡 ①電気ビル跡地】

 まずご紹介したいのは、電気ビル跡地に整備されている福井城の石垣です。
 写真から分かるように、現在は更地になっていて、江戸時代の福井城や百間堀の様子を窺えるものは、残念ながら残っていません。
 しかし、電気ビル解体の際に、百間堀沿いの土塁と石垣が発見されました。その結果として、敷地の東側から南に向かって、百間堀が広がっていたことが分かります。

整備された石垣の向こう(東側)は百間堀。
中央の柵が整備された石垣。写真の左側(東)から奥(南)に向かって百間堀が広がっていました。
現地解説板。赤枠が電気ビル跡地。
南方向にカーブしながら、百間堀が広がる。

【でも、分かりにくいですよね…】

 ただ、これではなかなかピンと来ませんよね。
 それでは、分かりやすくするためにさっきの写真を少し加工してみます。薄い青色の部分が、百間堀の位置です。

奥の方(南)に百間堀が広がっているのを、うまく表現できませんでした。残念。

 これで多少は百間堀をイメージできたでしょうか?

 さて、一旦石垣から離れて、まわりを見渡してみる。
 通り過ぎる人たちは、ここに堀があったことなど気にも止めず歩いています。
 もういちど整備された石垣の前に佇み、見えない百間堀をイメージしてみる。
 今この瞬間、ここに堀があったことを、わたしだけが知っている。
 ちょっと「ムフフ」という気分になりませんか?

【今見られる百間堀の痕跡 ②県庁線】

 次にご紹介したいのは、JR福井駅と県庁を結ぶ道路「県庁線」です。こちらもなんの変哲もない道ですが、ここに百間堀の痕跡があります。

百間堀の西岸を笏谷石タイルで表示。
こちらは東岸。解説板もあります。

 試掘調査で確認された堀の跡を、笏谷石(※)製のタイルで表示しています。解説板を見ると、現在地が百間堀のどのあたりなのか分かります。よく見ると、解説板の台座も笏谷石ですね!おそらく堀の石垣に使われた、江戸時代のものでしょう。刻印も施されています。

写真の赤い矢印の部分が百間堀の位置。
解説板の台座。
大きさと整形の仕方を考えると、堀の石垣石のようです。
刻印。何のための印かは、よく分かっていません。

※笏谷石:福井市の足羽山周辺で産出される青色の美しい石。福井城の石垣はすべてこの石で造られている(笏谷石については、いつか改めて書きます)。

【やっぱり、分かりにくいですよね…】

 それでもピンと来ないですよね。こちらも加工してみます。
 こうすると、幅20mくらいの堀が広がっていた様子が分かると思います。 
 なんの変哲もない道から、江戸時代の福井城の姿が浮かび上がってきませんか?
 ここでも、そのことを知っているのはわたしだけ。ムフフ。

百間堀のイメージ。結構広いですね。

【まとめ】
 百間堀の痕跡を、まちなかを歩きながら2か所見てきました。冒頭で確認した、江戸時代の絵図を見ながら歩いてくると、具体的な姿は残っていなくても、百間堀の規模がなんとなくつかめるのではないかと思います。次回も絵図を頼りにしながら、更に南に向かって痕跡をたどっていきます。普段何気なく歩いていた、こんな場所にこんな痕跡が!?という場所もあるかも。次回もよろしくお願いします。

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