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#1 馬は水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない

教育とは馬に水を飲ませること

こんな有名な英語の名文がある。

You can take a horse to water but you can't make him drink.

日本語に訳すと『馬を水飲み場まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない』という意味になる。これは、教育を学んでいた頃、最初に教えられた言葉であった。

なぜ、教育学で用いられるかというと、こういうことだ。

馬を強引に水飲み場に連れて行ったところで、喉が乾いていなければ決して水は飲まない。つまりは、学びとは『意思がなければ強制できない』という教えが含まれているのだ。

教育というものは、まさに馬に水を飲ませることだ。

いかに、目の前の机にすわっている生徒たちに、自分の意思で『学びたい』『知りたい』という潜在的な欲求を引き出すことができるか。教育の本質とは、それに尽きるという事を思い知らされる名文であると言えよう。

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ハーバード白熱教室

そういえば、昔、話題になったアメリカの名門ハーバード大学で最も人気のある授業、サンデル教授の「JUSTICE(正義)」における講義もそうだった。最初は非公開で行われていたこの授業は、あまりの人気ぶりに一般公開されるようになり、講義の内容をまとめた書籍もベストセラーになった。

何度かサンデル教授の講義スタイルを見たことがあるが、とにかく、その講義スタイルがおもしろかった事を思い出す。

「公衆哲学」という、一見難解に見えるこの学問の講義を、学生との対話をベースに展開していた。教壇に立つ教授は、教科書を順に開いて説明する訳でもなく、ホワイトボードに板書する訳でもない。ただただ、学生との対話の中で講義がどんどん進んでいくのだ。

教授の授業案は、まるで学生が構成しているようだった。

学生は、ただひたすらサンデル教授の問いかけに頭をめぐらせ、その講義の内容は学生の頭と学生自身のノートに記録されていく。

時にはユーモアを盛り込み、学生の興味のありそうな教材を盛り込み、講義全体に強弱をつけたりしていた。

何よりも素晴らしいのが、サンデル教授は「答え」を導きだすのではなく、学生が「知りたい」という気持ちに、火を灯していくだけだったという点だった。

火が付けられた学生は、どんどん知りたくなるし、どんどん考え、学びを深めていきたくなる。サンデル教授は決して答えは出さず、学生が学びを深めるために必要な道具となる情報だけを提供していくのであった。

まさに、この過程こそが馬が水を飲みたくなる状態であろう。

それまでは、自分は喉が渇いていたことさえも気づかなかったのに、学生たちは講義を体験することで、ものすごく喉が渇いていた事を知ることとなる。

もちろん、サンデル教授の中に予め用意された授業案がなく、学生とのフリートークでやみくもに授業を進めているわけではない。教授の中には、確固たる授業の道筋が用意されており、大筋ではそのレールに乗せられている。しかし、学生との対話の中で、時に回り道をしたり、時にショートカットしたりしながら、決して型にはめない柔軟性のある思考のやりとりに終始する。

柔軟で広がりのある思考こそ、学びが深まる土壌であると言うことを証明してみせたと言えるであろう。

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ルソーの自然人

哲学者 ルソーの言葉にこんな言葉がある。

「生きること、それは呼吸することではない、活動することだ。
私達の器官、感官、能力を、私たちに存在感を与える体のあらゆる部分をもちいることだ。
もっとも長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、もっともよく人生を体験した人だ」

「しかし、まず考えていただきたい。
自然の人間をつくりたいといっても、その人間を未開人にして森の奥深いところに追いやろうというのではない。

社会の渦の中に巻き込まれていても、情念によっても、人々の意見によってもひきずりこまれることがなければそれでいい。
自分の眼でものを見、自分の心でものを感じればいい。
自分の理解の権威のほかには、どんな権威にも支配されなければいいのだ。」

今こそ、このルソーの言葉は、情報社会に生きる私達の道標になるものではないだろうか?

ルソーはこの状態を、社会状態のただなかで生きる「自然人」と名付け、
つねに、自分の眼、自分の心、自分の理性でものや他社とのかかわり、
問題を追及していこうとする姿勢をもった人間を「自然人」
としている。

主に子どもの教育などにおいては、ひとり一人の子どもの世界を理解しながら、その訴えを他者との関わりのなかで実現していける思考力、行動力を育てる指導が求められる。

つまり、一方的に教えこませるのではなく、子どもが追求していく主体性のある自我の構築ができるような手助けをしなければならないのである。もちろん、これらは子供の教育のみならず、大人になってもなお、持ち続ける必要のある哲学ではないだろうかと思う。

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大人も子供も成長し続けている

それでは、大人になった私達は、今どれだけ喉が乾いているだろうかと振り返ってみる。どれだけ渇望していて、どれだけ貪欲であろうか?

恐らく、日々の忙しさに忙殺され、改めて学ぶことなど忘れてしまったかもしれない。

しかし、私達は生きているだけで多くのリスクにさらされ、日々、小さな決断から大きな決断を繰り返し繰り返ししながら社会で生きていかなければならない。今年は、特にこういう事を感じる年になったのではないだろうか?

だからこそ、身近にいる人のため、自分が所属する社会のため、大きくは人類のため、日々、探求していきたいというモチベーションを高めていきたいものである。これらは、その人自身の人間力も高め、良い社会を構築していくことにもつながるのだ。特に、日々あふれる情報社会の中に埋もれる現代では、膨大な情報を取捨選択して自分自身に取り込む能力が絶対的に必要である。そんな情報の波に飲まれない思考を育みながら、子供も大人も成長し続けなければならない。

自分の頭で考え判断するという、重要なことを忘れてはならない。そんなことを考えてしまう、ザワザワした現代社会である。

※参考:高橋 勝(1996)『子どもの自己形成空間』川島書店 218p.


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