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【勝手に人生相談 No.279】人の死を悲しめない (東京都・30代男性)
▼ご相談内容▼
30代の公務員男性。
人の死で悲しむことができず、自分が冷たい人間のような気がして悩んでいます。
はじめてそう思ったのは大好きだった祖母が亡くなった時。
優しい祖母で、みんなから愛され、葬式には多くの人が集まり、みんな悲しんでいたのに自分だけ何か悪い冗談のような気がして、ぼんやりするばかり。
何年もたってふと思い出し、悲しみが少し湧いてきたような気がします。
先日も大学時代からの友人の女性が亡くなり、葬式に出ました。社会人になってからも良い友人として付き合い、互いの結婚式にも呼び合いました。
30代の早すぎる死に驚きました。
それでも葬式には現実感がなく、自分なりに悲しんでいるんだと思おうとしましたがそう思えませんでした。
なぜ他人のために悲しんであげられないのか。薄情さや浅ましさが嫌でたまりません。
▼やまのぼ回答▼
あなたは、悩んでいること自体、亡くなった人を、深く悼んでいることになるのです。冷たい人間どころか、とても心が温かいお方だと思います。
本当に冷淡な人は、悩んだりはしないものです。
いわば、典型的な、パラドキシカルな思考です。あまりにも、振る舞いに拘り過ぎているのではありませんか。悩むことイコール悲しんでいる証なのです。
喜怒哀楽の処し方に、定石はありません。もっと言うならば、人生の全てにおいて、こうするべきだとか、ああしろという、決まりなど何もありません。
近しい人が亡くなったらといって、必ずしも悲しむべきでもないのです。
ところで、悲しむとは?どういう行為なのでしょう?それは、とても個人的な行為であって、他人から、評価されるものでないと思います。
心の有り様の表現方法は、千差万別あるのです。生前の思い出に触れ、亡き人を想起してあげることも、立派な悲しみの行為だと思います。
喜怒哀楽全てに通じて言えることですが、量の問題ではなく質の問題だとも思います。
例えば、ボロボロ涙を流す人もいるでしょう。言葉少なく逝った人のことを思い出している人もいるでしょう。
あなたのように、悲しみを表現できず悩んでいる人もいるでしょう。
悲しむという行為は、涙の量で測れません、悼む心の有り様なのですから。悩むことは、あなたの悲しみの質の高さを、現わしているのだと思います。
▼次回のご相談予告▼
次回の【勝手に人生相談 No.280】東京都・30代女性のご相談です。「子どもに手をあげてしまう」を、予定しております。
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