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はじめてのイタリア それは、グランデ・マッキナ・ペルファボーレ!

初海外


初めての海外旅行って、いくつでどこへどういうタイミングで行きましたか?

ぼくが、初めて海外に赴いたのは、それはもう30年以上も前のことで、社会人になって4年目くらい。仕事での出張が初めてだった。

時代背景

大学生だった頃は、80年代半ばでワンルームマンションなんてまだ普通じゃなかった。一般的な男子大学生は、下宿屋を改造したような、風呂無しトイレ共同みたいな、アパート住まいがまだまだマジョリティだったかな。
銭湯だって、ぼくが住んでた新井薬師の駅の近くにはまだあって、暑い夏の休日の夕方に銭湯に併設しているコインランドリーの前に丸椅子を出して、乾燥機の仕上がりを待ちながら、近くで買った氷菓子なんて食べて夕涼みをしていると、ちょっとキレイな女の子が洗面器を持って歩いてくる、なんて光景もあったのだ。
そんな頃だけど、JJとかオールナイトフジだとか夕焼けにゃんにゃんとかで、女子大生やら女子高生やらの商品化が進み、上り調子な浮かれ気分は、拡がりつつあった。

そんな時代背景もあってか、”卒業旅行”とか言って最後の春休みに海外に行くというのが流行り出したのもきっとあの頃なんでしょ。ぼくの仲の良い友人も3人か4人連れ立って憧れのニューヨークに行ったりして。

ところがぼくはと言えば、4年生で卒業できず留年決定なんてしたものだから、そんな浮かれ気分な企画に乗ることなどできるはずはなく、卒業生じゃないので、卒業式は私服で同級生をお見送りに行って、謝恩会は代金支払い済みだったので、確か一応行ったのだったかな?赤坂プリンス。
だけど記憶がない。そんな春休みだった。
要するに海外旅行などしていなかったのだ。

就活で商社

そんなこともあって、翌年度(ここ重要)の就職活動では、無謀にも商社を志望して、当たり前だが大手などは、箸にも棒にも引っかからない状態だったものの、大手町に本社のある中堅商社に潜り込めたのだった。

最初の配属は、大阪の輸入繊維部門営業課で、ここも楽しかったが、2年経ってから東京へ転勤。管理部門に一時在籍して、古巣の輸入繊維部門に再移動。そして4年目を迎えて、初めての海外出張。

成田空港だって出国管理だって両替だって国際線だって、全部全部初めての経験。それで一人で出張でしょ。そりゃ大丈夫かな?とちょっとだけ心配した。まあ、どうせ飛行機乗るだけだし、先に先輩が出張で行ってるし、現地には事務所があるし。

フライトの手配は、上司が出入りのエージェントに頼んでくれて、ホテルは現地支店のローカルスタッフに依頼。
イタリア出張だったのだけど、上司のいたずらで、24時間以上かかる南周り。シンガポールとズーリックでトランジット、ミラノ行き。

カレーパーティ

いろいろ割愛しますが、見るもの聞くもの感じるものみんな新鮮で、1週間弱滞在していて、ある日、ミラノ支店長の自宅でカレーパーティーやるぞ、とお誘いを受け、出張者と他の駐在員5,6人集まって、わいわいと美味しく支店長お手製の日式欧風カレーライスをいただいた。

イタリア語が通じたよw

さて、そろそろお開きってことで、駐在していた大先輩が「おい、乃凡亭!タクシー呼ぶからおまえが電話でしゃべれ!」「俺のいう通りにしゃべりゃ、通じるよ」
「え〜?」
「相手が出たら、プロントっていうからプロント、ボナセーラて言え!そのまますぐにマッキナグランデペルファボーレって言え!続けて電話番号を言やOKだ!」「電話番号は俺が横で言うからそのままおうむ返しに復唱しろ!」
というわけで、受話器を取ってダイヤルプッシュ。
「プロント」
「プロント、ボナセーラ、マッキナグランデペルファボーレ」
「セイセイノーべセイチンクエクワットロセイノーべ(これはデタラメです)」
とここまでは良かったけど、急に相手が質問らしき感じで喋り出した
「$#?¥&%??」
「なんかわけわからんこと言ってます!」
「おお、代われ」
会話が終わって電話を切ると
「でかいタクシーが出払ってるんだってよ、2台寄越してくれるってことになったよ」
ということだった。

で、そこで憶えたのが
クルマ=macchina (マシーンだけどクルマの意味)
グランデ=grande(大きな)
ペルファボーレ=perfavore (お願いします)

なんかそっけないやりとりだけど、知らない言葉で通じるって「楽しい!」と思ったとさ、の巻でした。






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