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悦子

皆にとっての「おばあちゃん」って、どんな人だっただろうか?
「おばあちゃん」という概念に、どのようなイメージを持っているだろうか?


僕は、自分の祖母を、いわゆる「おばあちゃん」だと思っていない。


例えば、白髪で、少し日焼けしたシワの濃い肌に、腰を曲げて、割烹着を着ている姿を「おばあちゃん」たりうる要素とするのであれば、
僕の祖母は、肌が白くて目立つシワもなく、髪も黒くて、彩度の高いジャストサイズの洋服を着ていた。

彼女は、50歳かそこらで自動的に「おばあちゃん」の称号を与えられているが、年齢を考えると、実質「おばさん」のまま祖母としての生活を強いられていたのだと思う。

今日はそんな、世にも若々しい僕の祖母の話だ。



祖母について


他人のエッセイや漫画などを読んでいると、何かと崇高な存在として描かれがちな祖母という存在は、僕にはファンタジーとしか思えないことがある。
ふと、会話の中で真理を突くようなおばあちゃんとか、多くを語らないのに、いざという時に大きな味方でいてくれるおばあちゃんとか。


僕の実家は二世帯だったので、祖母とも一緒に住んでいたわけだが、はっきり言って、僕は彼女に対して特別強い好意を感じてきていない。
もちろん、嫌いではないのだが…

前述の通り、祖母が僕の「おばあちゃん」になった時分、彼女は更年期真っ盛りで、なにしろパワフルな性格だったため、そこに拍車がかかって大変だった。

彼女が一日でも声を荒げない日があっただろうか?今思い返しても全く想像ができない。
祖母は、自分の思い通りにならないことがあると自意識が暴走し、最悪の場合、家を飛び出していくような人だった。

とかく、何をするにも、衝動任せ

未だに実家に帰ると、祖父との言い争いが絶えない様子だが、およそ70代とは思えないボルテージで、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしているので、そろそろ血管が心配になるほどである。



腫れ物扱い


祖母の振る舞いの中で、相容れなかったことがたくさんある。それは孫である僕に限った話ではなく、僕の両親や祖父でさえも、共通認識だった。


・人の会話に口を挟まずにはいられない
・何もかも否定から切り込んでくる
・ワイドショーとご近所付き合いから得た浅知恵でボキャブラリーを補う
・2階建ての家中に響き渡るような金切り声で祖父を怒鳴り散らす
・被害者意識が強い
 など…


しつこいようだが、決して祖母が嫌いなわけではない。しかし、尊敬できるかと言われると、反面教師になる事例の方が圧倒的に多いのだ。


いつの日だったか、僕の母との会話の中で、母の言葉のニュアンスと語気の強さが、かつての祖母と酷似しており、「今の、おばあちゃんにちょっと似てた」と何の気なしに指摘したところ、その後2時間くらい黙り込んでしまったことがある。

もはや「祖母に似ている」というワードは、侮辱としてとらえられてしまうのであった。

一緒に暮らす同性の肉親であっても、ここまで露骨に否定することがあるだろうかと、その時は思わず笑ってしまったのだが、いざ自分も祖母との共通点を指摘されたとしたら、たまらなく嫌になるだろうと思った。


祖母は、実の娘である僕の母にも一定の距離を置かれているし、同じ空間にいる旦那(祖父)とは目も合わせられないほど常に火花を散らしているので、家の中にいてまともに会話をできる相手といえば、孫である僕しかいなかったのだと思う。

相槌を打つことしかできない、賛同するしかないような話題を、小さな僕に振ることで、彼女は味方がいる安心感を得ていたように感じる。

その証拠に、僕は幼い頃、何度も彼女の家出に同行させられていた。



激情型人間


祖母には妹弟が6人おり、祖母が癇癪を起こした時は、彼らが彼女の駆け込み寺となっていた。
もちろん、彼らにも生活があり、家庭があったわけだが、発狂している祖母に周りなど見えていないので、タイミングなどお構いなしに彼らの自宅を訪問していた。

そして僕は、かなりの確率でこれに付き合わされていた。


子供の存在を家庭(親族)内不和の緩衝材にする大人だけにはなりたくないと、この時代から強く感じたものだ。


大叔母たちの家で祖母が激昂している間、僕は特に縁もゆかりもない場所でひとり遊ばせられていたのだが、大抵の場合、2時間も滞在すると、大叔母宅に実家の祖父から催促の電話がかかってきて、やっと祖母が帰り支度を始めた。

今考えても、僕がその場に居合わせる必要はなかったと思う。
しかし、僕がいれば誰も強い口調で怒れないという、確固たる自信があってこその祖母の行動だったはずなので、彼女の慢性的な我の強さには幼心に疲弊していた。


他の家族たちが、僕が連れ出される前に祖母を止めなかったのは、紛れもなく、僕を板挟みにしたまま言い争うのを避けるためだったと言えよう。

家出から自宅に帰った後、何事もなかったかのように、平然と自分の部屋に戻って1人きりになれる祖母とは違って、
僕は帰宅後も依然として、呆れ返って言葉を失う他の家族の顔色を窺わなければならなかったことが大きな心労となっており、

その後、上京するまでの10年近くは、必要最低限しか口を開かない子供になっていた。



遺伝子


祖母は、何かと単独行動が苦手な人で、他の家族が働きに出ている間も、地域コミュニティのワークショップなどによく参加しており、週に2回はヨガと太極拳を習いに行っていた。

痩せることを口実としていたのだが、明らかに何の身体的効果も見られないので、きっと他人と戯れる機会を欲していたんだと思う。

そして話し相手がいなくなると、僕のところへお喋りをしに来た。
僕の学校生活をうかがいに来るとか、そういうことではなく、単に自分の話をするために来ていた。

僕が成長するにつれて、だんだんと祖母に対しても、他の家族と変わらないような距離感になっていくことに彼女は苦言を呈しており、
放っておくと「そうやってみんなしてアタシのことを虐める」と、行き過ぎた被害妄想が始まってしまうので、適当に頷きながら聞き流していた。


彼女がひとりでに、家庭に疎外感を感じている時には、ある特徴があった。
僕の何気ない要素をピックアップしては、「自分との共通点」として語ってくるのである。

先にも述べたように、祖母との共通項なぞあったところで喜べるポイントなど何ひとつないのだが、仲間意識が欲しい祖母にとっては、孫にDNAを感じることが救いだったようだ。

癖毛なこと、太りやすいこと、勉強の出来云々…

僕からすれば、どれもこれも、肉親である母親から直に受け継いだ遺伝子に過ぎないのだが、祖母は自信たっぷりに、1/8の可能性に懸けていた。

「あなたはアタシに似ただね」と、満足そうに語るのだった。

たまったもんじゃなかった。



おばあちゃんになって


威勢の良さは相変わらずだが、今では祖母も、それなりに歳をとった。
黒々としていた髪も、いつ頃からか染めるのをやめたらしく、今はとても自然なシルバーヘアを携えている。

離れて暮らすようになり、ある程度の距離が生まれてからは、僕も祖母に優しくなれた。
何もかもジェネレーションギャップのひとつだと開き直ることができるようになったのである。

昔から感じていた違和感についても、度の過ぎたものには、あくまで個人の意見として話せるようになったことで、「お前がいると悦子(祖母)の機嫌が良い」と、祖父も静かに笑うのだった。




祖母と僕は、家族の中で唯一、この時期の花粉にめっぽう弱い。

いつも春になると、誤字だらけの手紙を添えて、彼女から薬が送られてくる。
毎年、心のどこかで、その支離滅裂な便りを楽しみにしている僕がいる。


悦子は、家族としても、人としても、特段秀でているタイプではない。
絵に描いたような、しわしわの、穏やかなおばあちゃんではない。

しかし春先になると、僕の大胆なくしゃみが、年々彼女に似ていくことを自覚し、僕はふと、悦子との血の繋がりを実感するのであった。

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