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「入学式にはスーツで行きません!」そう思ったらいつの間にか身近な大人たちに感謝してた

もうすぐ子どもの入学式。

そこであるご夫婦と話をしていたら「そういえばスーツ持ってるの?」なんて聞かれた。

一応、持ってる。喪服のみ。

そんな会話から思い出したけど、僕はスーツをこの喪服以外買ったことがない。

最後に着たのはいつだろうか?

理由は簡単で、嫌いだから。

あんなにキチッとした格好が嫌いだ。

みんな似たような格好ってのが尚更嫌いだ。

暑苦しいし、動きにくいし、何がいいんだろう?

人間はやはりヒザが自由じゃないと動けないっしょ!

そういえば、僕が就職活動をする時、仕事内容がどうであれ、ともかくまずは「スーツを着なくていい仕事」というのが最低条件だった。

今思えば、新卒のただの大学生が「条件」とか言ってる時点でだいぶエラそうな奴だな。

お陰様で大学院を出てすぐに入ったNPOでは初日の入社式こそスーツを着たけれど、次の日にはツナギの作業着で落ち葉を燃やしていた。
(誤って草スキー場が全焼したのはあまり大きな声では言えないが)

そして、転職したIT企業では初日からオフィスではなく体育館にジャージで出社してドローンを飛ばしてた。

2日目はようやくオフィス出勤だったが、フツーに普段着で行って夜中の2時まで企画書づくりをやってた。

もちろん独立起業した今はスーツを全く着ないし、みんなが着る場面でもそれらしいジャケットを羽織るくらいでスーツは着ない(もはやジャケットを持ってることに驚くなよ!)

こうやって考えると僕は嫌いなことをちゃんと避けれている。

スーツが嫌なら、満員電車も嫌いだ。

テレビの映像とかでしか見たことなかったけど、毎朝満員電車にすし詰めで乗るなんて絶対イヤだ。

だから高校生の頃から「満員電車に乗らない仕事」も同じように最低条件に加えられてた。

鹿児島出身で周囲が東京や大阪など都会に憧れているところ、僕は脇目もふらず田舎の大学、田舎の会社を目指していた。

仕事以外でもやりたくないことはトコトンやりたくない。

学校で誰かが勝手にやりたくないことを量産するのが嫌だから、僕は小中高とずっと生徒会長で大学では学課長だった。

高校の卒業式では、生徒代表としてあいさつを読み上げる時も、国語の先生から「最初は時候のあいさつ(〇〇の候とか言うやつ)を入れろ」と言われたのを「それは俺の言葉じゃないからイヤだ!」と泣きながら全力で拒否してた。

サッカーの練習ではリフティングや技術練習は嫌いだったから全然真面目にしてなかった。お陰様で十数年続けていたのに全然技術は向上しなかった。

それでも好きだったことは全然苦がなくやれた。

人一倍、走る練習はしたし、跳ぶ練習はしたし、対戦相手の分析や研究はやったおかげで、小中高とずっとレギュラーで試合に出ることが出来た。

僕は子どもの頃からその辺が本当にブレずに一貫してるんだろうな。

イヤなことはイヤ!好きなことを好きなようにやる!

そうしてきたからこそ、僕は「イヤなものから逃げる力」「イヤなものを避ける力」はメッチャ自信がある。

イヤなものから逃げるための努力ならいくらでも出来る。カッコいいこと言ってそうで実はメッチャダサい。

でもきっとこれは大事な力なんだとここ数年で気付いた。

未だに「我慢」や「継続」が美徳とされる日本では、やはりそんな「イヤなことから逃げること」はダメなことだと、悪とされがち。

でも今の世の中は選択肢がたくさんある。多様性に溢れてる。

社会や文化や技術が成長したおかげで、無理しなくても我慢しなくてもヨユーで生きていける世の中になった。

僕らは戦国の世を生きてるわけじゃない。

わざわざイヤなことを我慢して、辛い毎日を我慢して、生きていく必要はない。

僕は一貫して自然と昔からそれを出来てた。

きっと家族をはじめ周りの大人に恵まれたんだろうということを35歳にもなってようやく気付いた。

僕がそのままでいれて、ここまでこうして自分らしく生きれたのは、そんな身近な大人たちが僕を認めてくれて、その僕らしさを”軌道修正”しないでいてくれたおかげだ。

ありがとう皆さん。

僕も子ども達の自分らしさを大切にしてあげて、自由にありのままのキミでいれるお手伝いが出来る。そんな大人になるよ。



「スーツが嫌い!」ってだけのただのワガママ野郎の話を、ここまで世界観広げてお送りできるのも僕の妄想力をそのままにしてくれたお陰です。

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