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学校の勉強は大事だけど、全てではない

私には子どもが4人いますが、正直なところ、4人ともみんな勉強があまり好きではないみたいです。まぁ、私自身もあまり好きじゃなかったし、まともに努力したのは大人になって通った大学院(MBA)のみですから、気持ちはすごくわかります。そして、今のところ、そこまで気にしていません。

学校の勉強はできた方がいい。だけど、それが全てではない。

私が勉強が好きじゃなくなったきっかけ

小1年の時に担任の先生に「○○君は字がすごくキレイだね。ほら、みんな見てごらん!」ってクラスのみんなの前で褒められました。そしてクラスの友達たちが「おお〜、ほんとだ!すげぇ〜!」って言ってくれたので、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。あまりの嬉しさに家に帰って母に言ったら、喜んでくれたのを覚えています。でも、後にも先にもそれが勉強などで褒められた最後の記憶のような気がします。

小学校の頃から成績はいつも5段階評価でほとんどが4点以上でしたが、ちょっと厳しめの父から勉強で褒められたことがありませんでした。小学校3年の頃だったと思いますが、テストで96点を取ったので誇らしげに父に見せた時、「こんな簡単な問題でなぜ100点が取れないんだ?」と怒られ、次のテストで見事、100点をとったら、「こんな簡単な問題で100点なんか当たり前だろ。何が嬉しいんだ?」とまた怒られました。

以後、テストの点数を親に見せるのは止めました。しかも高校に入るまでは、常に学年でもTop 5%に入る成績でしたが、成績で褒められたことは一度もありませんでした。全米で2番目にいい高校に合格した時でも唯一、褒めてくれたのはアメリカで留学先を紹介してくれた遠い親戚の方で、「よく合格できたな」と言われたのを鮮明に覚えています。

当たり前の話ですが、子どもの達成感と努力を認め、尊重し、褒めてあげることで子どもに大きなインパクトを与えられることを忘れないように戒めています。

親になってみて心に決めたこと

自分が親になって心に決めていることが2つあります。それは子どもたちをテストの結果や成績だけで判断しないということと、他の子と比較しないということです。

その1:テストの点数や成績だけで判断しない

私が唯一、勉強に関して判断するのは努力したかどうか。だから努力して50点であれば問題ない。努力しないで80点だとチクリと言う。(まぁ、流石に30点とかなら怒ると思いますが、それもあまりにも勉強しなさすぎという意味で)

社会に出たら結果が全てになる。でも、失敗したとしてもその過程を見てくれる上司やチームメンバーもいるし、取引先も誠意を持って仕事していれば、失敗したとしてもそこまで大事になることはない。ただ、努力していなければフォローしてくれる人もいなくなるだろう。

だから、点数で評価をしない。努力を評価する。点数はあくまでその子の努力のバロメーターの「ひとつ」であるが、全てではないし、その子の「人格の点数」ではない。

その2:他人と比較しない

人と比べたらキリがない。世の中広すぎるし、人と比べ始めたら一生、惨めな想いをする。そんな人生を歩んで欲しくない。

きょうだいであってもそれは同じだ。むしろ一番身近な輪の中で優劣をつける行為ほど、子どもを傷つけることはないだろう。

家族は安全な場所じゃなければならない。そこが崩れてしまうと、子どもが立つ土台がなくなる。

じゃあ、なぜ学校の勉強するのか?

シンプルに自分の選択肢が増えるのと、思考力を学ぶために学校の勉強は重要だと思う。

選択肢について

勉強ができた方が通える大学やアクセスできる(手に入る)知識や情報が格段と増える。これは紛れもない事実である。優秀な大学にはお金が集まる。お金が集まるところには情報やリソース(資源)が集まる。その情報やリソースにアクセスできるかどうかによって選択肢が自ずと増える。だから、学校での成績は重要になってくる。

そしてその先の就職においても当然、選択肢が増えてくるだろう。ただ、それは新卒か第二新卒くらい(転職1回目)までだろう。要は社会人としてのキャリアのスタートまでは大学名でチャンスの幅は変わってくる。

だけど、それは今までの就職活動に活きるけど、数年後には従来の学校教育で学べる範囲だけでは足りなくなってくる。

思考力を学ぶ

なぜ数学を勉強するのか?それはルールに則って、問題(課題)を解くプロセスを学べるからである。

なぜ国語を学ぶのか?それは、母国語を学ぶことで国の文化や表現力を学ぶのと同時に、伝える・理解するコミュニケーション力の土台を作るためである。

なぜ科学を学ぶのか?それは世の中の原理原則を学び、それによって論理的に事象を説明する思考力を学ぶためである。

なぜ社会や歴史を学ぶのか?それは現在の有様を知り、未来を予見する土台を築き上げるためである。

なぜ美術や音楽を学ぶのか?それは論理的以外の思考を学び、視野を広めるためである。また、自由な発想の中にも法則性(トレンド)を見つけることで、本当の自由と不自由。思考の発散と収斂を体感するためにある。

このように、学校の授業は社会に出てからも必要となってくる「思考力」の土台となっている。

ただ、今までの日本のダウンロード型学校教育では今後、社会に出てもなかなか厳しい荒波に呑まれることでしょう。

ダウンロードできるものはテクノロジーが代わりに行うようになり、「人」に求められる価値提供は別にある。それを「学校」という小さな社会で学ぶことも重要な意義である。

学校の勉強以上に大切なもの

今後、企業や組織が人材に求めるのは知識の質や量よりも「思考力」と「人間力」にもっとシフトしてくるでしょう。

情報は無限にあり、その大量な情報から何が重要で、何が信頼できるかを判断し、どの情報を掛け合わせれば求められているアウトプットを出せるかを判断できる「思考力」(推察力)が大事になってきます。

どの情報をどこから取得し、どの情報と掛け合わせると最適なアウトプットが出せるかを見極め、実行できる思考力・推察力

また、今後はリモートがさらに進み、一緒に働くステークホルダーが日本だけじゃなくなってきた時にいかにチームとして上手に立ち回れるか。人をまとめられるか(マネージャー以上)が求められてきます。

そのためには子どもの頃から、人との関わり方のあるべき姿を親が示し、背中を推し続けてあげることが大事になってきます。

勉強しなさい! < 何を学ぶべきか、一緒に考えよう😊

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