見出し画像

最初のわたしの保健室

学校の教員には、正規採用の教員に産休や病休などの長期の休みがあったとき、その先生が職場復帰するまでの間、臨時的に教員ができる制度がある。

私は大学卒業後、その期間限定の養護教諭として半年間私立高校に勤務した。

「あまり生徒を保健室に入れないように」

就任時、最初に言われたことは、「生徒のたまり場になるから手当とかしない用のない生徒は入れないように」だった。

もちろん留守番みたいな身分だから、前任の先生のやり方やルールを踏襲するべきだったのかもしれないが、いきなり釘を刺されて私は「せっかく保健室の先生になれたのになんで…」と不満に思った。
当時の私にはやっとなれた保健室の先生だったこともあって物足りず、そのルールは自分の理想とは違い消極的に感じた。

次の週から私は、生意気に、保健室のドアを開けっぱなしにし、入りやすいようにかわいいガーランドをつけたり掲示物を貼ったりした。ちらちらと好機の目で通り過ぎていく生徒たち。「お、雰囲気変わりましたね」といってくれた校長先生。そのうち保健室には休み時間のたびに誰かが来るようになり、授業中にけんかになり怒りがおさまらない生徒がきて、枕に八つ当たりするのを見守ったりもするようになった。

2か月ほど経ったころ、毎日昼休みになると3年生の女子生徒4人がよく来るようになった。

彼女たちは、それぞれに「生きにくさ」を抱えていて、そのことを話してくれたり、泣いたり、いろんな男子と付き合っては別れたり、家出したり、自傷したりしていた。これは彼女たちなりの「表現」だったのだと思う。

昼休み中ずっと保健室にいて、午後の授業に間に合わず、私と教室に戻ったり、午後の授業に担任の先生が迎えにくることもあった。「正直僕もどうしたらいいか、よくわからないんですよね」とその先生は言った。

当時の私も、正直どうしていいのかわからなかった。上腕までリストカットした腕を見せられるたび、自分に何ができるのか考えた。「もう消えたいです」そんな手紙をもらったこともあった。スクールカウンセラーの先生にも相談した。

自傷を止めるにはどうしたらいいのか?このまま卒業したらどうなるのか?見守るとはなんなのか?寄り添うとはなんなのか?教師として何をするべきなのか?

看護の実習で感じた、あの底なしの無力感がじわじわと足にまとわりついてくる。

ある日、そんな彼女たちの一人からこんなことを言われた。

「先生って、こうやってちゃんと聞いていてくれるよね。自分の話なんて誰も興味ないと思ってた。」

その言葉は衝撃的だった。私の思いそのままだったからだ。私は自分自身の話をするのも聞かれるのも苦手で、苦手な理由は私自身のことは誰も興味がないと思いこんでいた。

それを聞いて、私はこの子たちのことを本当は知らないんじゃないか、と感じた。私が知る、聞くことでなにか居場所みたいなものが生まれるんじゃないか。「私にも」、私のままの私を知ってくれている友人がいたから、そういう人がひとつの逃げ場になっていることは実感している。

この気づきをきっかけに、私たちは交換日記を始めた。

内容はなんでもよかった、自分のこと、何が好きか嫌いか、今日あった嫌なこと、だるいこと、傷ついたこと。リストカット常習になっていた子は、「切りたい、切りたい」と書いていたがその日は手首を切らなかったそうだ。切るときもあったけど。交換日記は卒業までの2か月間あまり続き、彼女たちは社会に出て行った。


あれから4年あまり、当時3年生だった彼女たちも、社会人になって数年経つ。私は看護師として、人が生きていてそして死ぬこと、人間という心の複雑な有様を見続けてきた。

この時のやり方がすべて正しかったとは言い難い。しかし、あの時の自分にはこれが精一杯だったし、彼女たちに出会って関わったことが今実現したいと目指している保健室の姿へのきっかけになったことは言うまでもない。

今なら、「自分にできることは多くない」と言えるだろう。これはあきらめではなくて、その人の人生に、自分が大口を開けて介入し指図することなど言語同断なのだ。余計なお世話だ。そうではなくて、ありのままを受け止め、ぐちゃぐちゃになっている糸をほぐす手伝いをする。暗闇のなかで手を取り、一緒にかすかな光を探す。それが私の思う寄り添う姿であるし、そういう態度でいたいと私は思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?