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「日本人とユダヤ人」講読
野阿梓
第十八講 ハムレット(2)
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大岡昇平氏が「ハムレット日記」の落想を得たのは、サー・ローレンス・オリヴィエが演じた映画「ハムレット」を観た翌年の四九年だったそうですが(そこで氏をはじめとする多くの日本人が、初めて本場の発音でHamletの台詞を聴いたのです)、より直接的な契機は、五一年にドーバー・ウィルソンの「ハムレット
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野阿梓
第十八講 ハムレット(1)
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文庫版の「あとがき――末期の一票」には、
「ハムレットの最後のせりふは「余もまた末期の一票を投じよう」である。王制では父が死ねば子が位をつぐ、これが当時の現実である。しかし「たてまえ」としては、あくまでも王は選挙で選出されたのであるから、あのせりふが出てくる」(二五五―二五六頁)
「日本人とユダヤ人」講読
野阿梓
第十七講 ダビデとヨナタン
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歴史逆転はともかく、三笠宮の言及は、非常に新鮮な観点を、七七年当時の私に与えてくれました。すなわち、カナン侵攻した後のユダヤ人は、決して一枚岩でもなく、十二支族が強固に結びついた連合でもない。むしろソロモン王の死後に分裂した原因は、ダビデ時代より先から伏在してあった。むしろ南北は最初から対
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野阿梓
第十七講 ダビデとヨナタン
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文庫版の「第十五章:終りに――三つの詩」には、旧約聖書を彩る詩歌が引用されており、そのうちの一つが、後にユダヤの王となるダビデの歌です。サムエル記下には、
「イスラエルよ、あなたの栄光は、
あなたの高き所で殺された。ああ、勇士たちは、ついに倒れた。
(中略)
わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたし
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野阿梓
第十六講 ソロバン
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文庫版の第十四章「プールサイダー(ソロバンの民と数式の民)」には、
「私はあるソロバンの名手を知っている。彼は実物のソロバンを手にもたず、頭の中にソロバンを浮かべて、目をつぶって数字を聞きつつ、想像もつかぬような複雑な計算をやってのける。彼のソロバンは文字通り、「存在」しないが「実存」している。彼は強い緊張感
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野阿梓
第十五講 ハジ・アミン・アル・フセイニ
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文庫版では、
「民族の争いなどというが、英委任統治時代には、ナチス党員(だったといわれる)エルサレムの首長ハジ・アミン・アルフッセイニとその私兵団のテロに対して、また英委任統治当局の弾圧に対してユダヤ人とアラブ人が共同して戦ったのは事実である」(二〇六頁)
――とあります。
さて、ハ
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野阿梓
第十四講 ディプロストーン
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文庫版には、
「最も古い例をあげれば、エジプトのアレクサンドリアにおけるディプロストーンの破壊といわれる事件であろう。アレクサンドロス大王はユダヤ人を重く用い、彼が新設したアレクサンドリアの町では、ユダヤ人にマケドニア・ギリシヤ人と同じ特権を与えたといわれる。「同じ」といっても、実践上は政治の特権はギリシア
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野阿梓
第十三講 ニケーア会議
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文庫版には、
「キリスト教の成立と新約聖書の間には少なく見つもっても三百年の開きがある。キリスト教徒のいう「三位一体」などは新約聖書のどこを開いても出てこない。第一、人間が神を十字架につけて処刑するなどという思想は、モーセ以来の超越神の下に生きていた当時のユダヤ人の思想の中にあるわけがない。ニケーア会議まで
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野阿梓
第十二講 ロープシン(5)
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さて、以上、粗く略述したように、今現在の「世界」は、そういう状態です。
六七年に五木寛之が描いた黙示録的な世界は、今は様変わりしています。もっと悪くなっている、と言ってもいいでしょう。「蒼ざめた馬を見よ」では、少なくとも人は殺されていません。この謀略で重要な役割を果たしたオリガという女性が自殺したと
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野阿梓
第十二講 ロープシン(4)
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さて、ベンダサンは「黙示文学」について、「非常に簡単にいえば、ピカソのゲルニカを文章になおしたものだ」と語っていますが、これはユダヤ的な黙示文学の非常に優れた簡潔な説明ではありましょうが、黙示文学そのものは、ユダヤ以外にも、他の時代や国にも古来から在ります。古代アッシリアやバビロニア、またゾロアスター教のペ
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野阿梓
第十二講 ロープシン(3)
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ところで、ここで引用されている五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」は六七年の直木賞受賞作ですが、
「しかしロープシンは、日本語に訳されたとたん、黙示文学の系統からばっさりと断ち切られている。従って五木氏の小説にはもちろん、黙示文学的要素は全くない」
――とあるのは、まあ、ある意味、文学史的には当然の批評とはいえ、五木寛
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野阿梓
第十二講 ロープシン(2)
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私は、やはり七〇年前後の(日本での)言説ですが、戦争体験のある人から「戦争に行って人を殺したことのない君たち、今の若者はまだ「大人」じゃないんだ」といった言葉を聞いたことがあります。それを聴いた私は非常に腹を立てて、(お前たちだって、好きで戦場に行ったわけじゃないはずだ。赤紙で召集され、行った先の戦場でやむをえず敵
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野阿梓
第十二講 ロープシン(1)
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文庫版の第十章「すばらしき誤訳「蒼ざめた馬」――黙示録的世界とムード的世界――」には、
「五木寛之氏の『蒼ざめた馬を見よ』はその題名をロープシンの『蒼ざめた馬』からとっており、この『蒼ざめた馬』はその日本語訳の扉に摘記されているように『ヨハネ黙示録』六章六節からの引用で、この『ヨハネ黙示録』の馬は『ゼカリヤ書』の
「日本人とユダヤ人」講読
野阿梓
第十一講 モーセ(6)
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ともあれ、肝心のゼリンの原著論文は私には語学力不足で読めないし、フロイトの引用の内容に不明な点があるし、論文としては参照文献リストがないし、個人的には、これはエセーであって論文ではない。という印象です。生涯にあまたの論文を書いてきた人なら、最期に残すべき論文をこのような雑駁さで書き記すだろうか。疑念はモヤモヤ
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野阿梓
第十一講 モーセ(5)
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それにしても、本当にモーセはユダヤ人に殺されたのか。その証拠たる文献がどこにあるのか。
フロイトの本を再読してみても、その明示的な出典がよく判りません。一九二二年に書かれたゼリンの文献から着想したが、ゼリンは批判を浴びて、後でこの論文を撤回した、とあります。全く手がかりがありません。「モーセ、イスラエル・ユダヤ人の
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野阿梓
第十一講 モーセ
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フロイトが論じている「父親殺し」とは、一種、妄想的とも見えるユダヤ人的な発想による、古代のエディプスコンプレックス解明の理論です。
これは、私の管見ですが、おそらく、今の日本人の若い人には、フロイトの言っていることが理解できない、と思います。彼のユダヤ人的思想とか、個人の特性とか、いろいろ事情があるのですが、今の日本では