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「日本人とユダヤ人」講読


             野阿梓


   第十二講  ロープシン(4)


 
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さて、ベンダサンは「黙示文学」について、「非常に簡単にいえば、ピカソのゲルニカを文章になおしたものだ」と語っていますが、これはユダヤ的な黙示文学の非常に優れた簡潔な説明ではありましょうが、黙示文学そのものは、ユダヤ以外にも、他の時代や国にも古来から在ります。古代アッシリアやバビロニア、またゾロアスター教のペルシャにも似たような文学はある。北欧にだってラグナロックがある。その特徴は、別にユダヤ教のモーセの第二戒によって絵画彫刻が禁じられた故の具象的描写法だけでもありません。他の要素がより大きいのです。


それはまず、何らかのカタストロフィにより世界が滅亡するだろう、という「終末思想」が前提としてあり、ついで何者かによって滅びの中に、義なる人々が救済される、つまり「救世主」の思想がセットになっている。この二つが対になっていない黙示文学はありません。むろん、バビロン捕囚の憂き目にあったユダヤ教によって、この文学形態は純化されましたが、およそ人間の文化で同様の思想がない民族などなかったことでしょう。仏教にだって、「末世」の思想はありますから、西洋だけのものでもない。必ず終末が来て、大災害が襲い、あるいは世界中が戦い合う。人類は滅亡の淵に立つ。その時、各民族が信じる救世主が顕れて、義となる人々を救う。といった内容は、古今東西を問わず、あります。


要するに、黙示文学の要件は、別段、ユダヤ教的なものが必須条件ではなく、ロープシンやドストエフスキーのように聖書からの引用や暗喩がちりばめられていなくてもいいのです。すなわち、


1)終末思想の圏内にあってカタストロフィを予期しつつ書かれていること。
2)世界が崩壊破滅したとしても、そこに何らかの救済や救いが描かれていること。


これさえ満たしていれば、私は(はなはだ勝手な思い込みですが)それを「黙示文学」と呼んでもいい、と考えています。この(ゆるい)境界条件の範囲内であれば、五木寛之「蒼ざめた馬を見よ」は十分に立派な黙示文学たりえています。

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ところで、黙示文学の規定より前に、普通一般に「黙示録(Apocalypse/Revelation)」と呼ばれる代表である「ヨハネの黙示録」について、触れていませんでしたので、これに簡単に言及しておきます。黙示録(アポカリプス)とはギリシャ語が語源で、それのラテン形で「掩いを取って暴露する」という意味です。


新約の末尾にあるそれは、おそらくダニエル書を主とした預言書や旧約の黙示文学の影響を受けた、終末思想の産物です。伝統的なキリスト教的解釈では、ヨハネ書の書記と同じ人が書いたもの、とされていますが、異説もあります。中にはグノーシス主義のキリスト教異端派であるクリントスが書記だ、といった飛躍したものもあります。
エーゲ海に浮かぶパトモス島のヨハネという人が書いた、という伝承より以外は判っていない。と断じてもよいでしょう。十二使徒のヨハネが聖母マリアを連れて小アジアのエペソ(エフェソス)に移り住んだが、後にローマ当局により追放され、パトモス島に幽閉された。その間に黙示録を書き、やがて釈放されてエフェソスに戻った。という伝承があるため、十二使徒の中で唯一殉教しなかった(何度も殺されたが生き還った由)使徒ヨハネが、ヨハネ福音書や書簡と並んで、この黙示録の書記である、と言い伝えられています。もとより伝説の域を出ません。ただ、使徒行伝第十八章第二十七節によれば、エフェソスには、パウロの伝道より前から、救世主運動の共同体(兄弟たち)が存在していました。パトモス島はともあれ、書記ヨハネがエフェソス起源なのは、そうした思潮が源流にあったもの、と推測されます。


旧約にはエゼキエル書やイザヤ書の中に似たような黙示文学がありますが、ヨハネの黙示録はそれを極端に凝縮したような内容です。いわば黙示文学のエッセンスになっています。旧約の書であれば、いかに民がヤハウェに背いて罪を犯したか、といった鬱陶しい前段がえんえんと書かれたものが多いのですが、ヨハネでは、ほぼそれがなく、いきなり世界の終末が語られます。ここで人間の罪は前提化されているのです。あとは終末を迎えるだけです。


ヨハネは主として現在のトルコを中心とする小アジア一帯の七つの教会に対して書簡の形でこの書を送っています(パトモス島はエーゲ海でもトルコ沿岸部付近です)。人がこういう書を書いて、その内容を書き送る時、それは、全く知らない他人にはしないでしょう。同質の思想と信念を同じくする人たちに送るものです。だとすると、おそらく当時、このヨハネを代表とするメシア運動のグループがエフェソスを始めとする小アジアの各地に点在し、それらは彼と思想を同じくしていたものと思われます。


「七」がこの黙示録では秘数であり、以下、ほとんど七つの出来事が次々に起こります。七つの封印が解かれ、その都度、破滅へのカウントダウンが始まります。第一の封印で白き馬が、第二の封印で赤き馬が、第三の封印で黒き馬が、第四の封印の解除で蒼ざめた馬が解き放たれます。騎り手は「死」で、黄泉がこれに従っている、とあります。第六の封印解除から世界の破滅が現実となり、


「わたしが見ていると、大地震が起って、太陽は毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになり、天の星は、いちじくのまだ青い実が大風に揺られて振り落されるように、地に落ちた。天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての山と島とはその場所から移されてしまった」(第六章第十二節から十四節)


――と黙示録的情景が展開します。「怒りの日」が発動されたのです。


七人の天使たちが、それぞれ七つのトランペットを持ち、次々に吹き鳴らします。トランペットが鳴るつど、天から様々な災いが降りかかり世界は滅亡を迎えてゆきます。読めば判るので、以下は細部を省略しますが、全二十二章の大半が世界の破滅と、サタンと竜に代表される悪と、天使に代表される善との戦いとなります。最後の戦い「ハルマゲドン」が戦われ、竜たちは底なしの穴に落とされ一千年間、封印されて、その間、殉教者たちは平和のうちに再臨したキリストと共に生きるのですが、千年後には竜が封印を解かれて復活し、ゴグとマゴグの民を召集し最後の戦いに挑みますが、天の火が彼らを焼きつくしてサタンは最終的に敗北します。
最後の審判が行われ、善なる人びとが「新しい天(天国)」と「新しい地」に住みますが、邪悪な人間たちは死と黄泉(ハデス)と共に火の池に投げ込まれます。天使が(ヨハネを)いざない、新しいエルサレムを見せます。さまざまな宝石に飾られた美しい幻想的な都市です。その都市の中に聖所は見当たりません。その都市そのものが聖所だからです。もはや罪もなく夜もない、太陽すらなく、主なる神が彼らを照らし、永遠の命を得ます。
天使は以上の幻象をヨハネに示した後、このことは「すぐにも起きるべきこと」であると知らせ、神の僕たちに弘めるべく見せたのだ、と説明します。ヨハネは以上の幻象の見聞を預言として人々に伝え、この書を改竄してはならないと警告します。


旧約にもエゼキエル書をはじめ、幾つかの黙示録はありますが、恐るべき死と破滅が、これほど短い文章の中に詰めこまれ、切迫した終末の幻象を描いた書は他にありません。キリスト教の一部の派は、この書を正典(カノン)と認めなかったほどです。新約は福音書と書簡と、この黙示録から成りますが、この書だけ異様な色彩を帯び、他の諸書と異なっているのは確かです。


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ところで、五木寛之氏が自身のおそらくは画期的な小説の冒険にみちた作品に「蒼ざめた馬を見よ」と名付け、当時の日本でも、ロープシンだと思わせる題名を借りたのは、なにも氏が大学でロシア文学を学んだせいばかりではなく、そこには彼なりの切羽つまった思いが込められていたのだ、と思われます。


ついでながら、NDLーOPACでは、刊行年までしか判らなかったので、ネットの画像検索で書影、特に奥付が載っているサイトを調べたところ、同じ年に刊行されたロープシン「蒼ざめた馬」は、現代思潮社版の川崎浹訳が六七年一一月二五日初版、晶文社版の工藤正広訳が六七年一一月三〇日初版であり、五木氏の「蒼ざめた馬を見よ」は六七年四月一五日初版ですから、本家より先行しています。まさか五木氏の成功に当てこんで二社が緊急出版したとも思えませんので(大正八年の青野訳は英語からの重訳で二週間で仕上げた、とありましたが、六七年の二社はいずれもロシア文学者によるロシア語からの翻訳で、特に現代思潮社の川崎浹氏は同年三月三一日初版のサヴィンコフの「テロリスト群像」を先に出していますから、かなり事前に準備がなければ不可能でしょう)。それ以前のロープシンの本は五一年の世紀書房刊の猪野満智子 訳「蒼ざめた馬」ですから、この六七年は「蒼ざめた馬」ラッシュです。

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では、氏が「蒼ざめた馬を見よ」を書いた六七年に、世界の破滅を予告するような状況があったのか。ありました。先の六〇年代後半を主とした世界の事件誌一覧にはありませんが、六二年にはキューバ危機が起きています。米の偵察機U-2がキューバ基地に核ミサイルが運びこまれたことを高高度から確認し、解析したところ、被覆されたカバーの下にソ連製ミサイルの尾翼だかが確認され、米ソの緊張は一気に高まりました。第三次世界大戦が現実のものとなって迫るなか、大統領に選出されたばかりの若いケネディ大統領は、国民に向けてTV放送を行い、未曾有の危機を訴えます。その表情は硬く悲壮でした。そこで、すでに核シェルターを造っていたアメリカ人は家族をそこに収容し、他の隣人などが来たら射殺する積もりでライフルを構えるような、殺気だった空気になったのです。


私の高校時代の聖書の先生だった牧師は、当時、アメリカに留学していて、それを現場で見聞きして、その空気を私たちに伝えてくれました。私の記憶では(子供時代とはいえ)日本では、それほど緊迫した雰囲気ではなかったように思うのですが、アメリカでは違ったと言います。いつ第三次世界大戦が起きても不思議ではない危機感が全米を支配していたそうです。幸い、当時のソ連首相フルシチョフが渡米し、ケネディとサシで対談し(頭文字をとってKK会談と呼ばれました)、危機は平和裡に回避され事なきをえました。しかしその数日間、おそらく全米の人間が、第三次世界大戦――それは間違いなく熱核戦争という現実のハルマゲドンです――を身近に感じたのです。

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思えば、私がSFマガジンを定期購読し始めたのは中学に上がる頃からだったと思うのですが、その前後から私は古本屋通いをしていて、丸背と呼ばれるSFマガジンの古いバックナンバーを蒐めていました。そして、六〇年代のSFMに載っている主にアメリカのSFは、たぶん米国での初出は五〇年代だったと思うのですが、やたらと第三次大戦が起きた後の話が多かった記憶があります。それらの作品は、なんだかもう過去になった未来、という感じで、当時、すでに中学生だった私には、あまりピンと来ない話でした。修学旅行で長崎に行き、平和の像を見ても、さしたる感慨は憶えませんでした。だが、一つ上の世代は違っていました。


私は五四年に福岡市で生まれ、そこで育ったのですが、当時、朝鮮動乱で中国軍が優勢となり、米韓軍は押されていました。福岡市には、その頃、そこがホームグラウンドだった「西鉄」ライオンズの平和台球場があり、その前に大看板を建てて、そこに朝鮮半島の地図が描かれ、ノースコリア軍の侵攻が赤字で記され、近隣の人たちは、それに一喜一憂していた、と言います。連合軍総司令官マッカーサーは自ら立案した仁川逆上陸のため、司令船に乗って仁川に向かい、ここで奇跡的な逆転をします。しかし、それまで福岡の市民にとって、朝鮮半島とは一衣帯水で、サウスコリアが対馬海峡に追い落とされたら、次に襲われるのは自分たちだ、との危機感があったのです。こうした国際感覚は、戦後生まれの私たちは持っていません。


付言すると、当時の日本はスパイ天国でしたから、東京に潜入した中共スパイによって、マッカーサーの戦略・戦術は中共に筒抜けで、秘策と言うべき仁川逆上陸もほぼ掴まれており、毛沢東は逐一、報告を受けていたそうです。彼は周恩来を介して北鮮の金日正に警告を送ったのですが、なぜか金主席はこれを無視し、逆上陸を許してしまいます。
しかしながら、これらのことは、後で判った事実で、そうとは知らない私の両親の世代の博多っ子たちは、迫り来る北の脅威を大看板の地図に見て、戦々恐々ないし欣喜雀躍していたのです。ちなみに私の両親が福岡に来たのは、ちょうど朝鮮戦争が休戦になった五三年七月のことでしたので、これらの光景は見てないはずです。私は博多の古老たちから、その話を聞きました。


さらに、中共軍が進撃すると、サウスコリア軍は敗走します。この間、マッカーサーは、トルーマン大統領の許可を得ずに三八度線を越えたり、いくつかの命令違反を犯し、最後には中共軍に対して原爆投下を提言した、と言います。マッカーサーの部下だったアイゼンハワーは同じウェストポイント(陸軍士官学校)で成績が悪く、マッカーサーは首席卒業ですから、統合参謀本部もホワイトハウスも彼の眼中に無きがごとしでした。彼が、日本占領を含めた連合軍最高司令官となった際、日本の占領統治に関して、トルーマンが史上空前の全権を与えたのも、将軍の奢りを高めたのだ、と思われます。
もともとダグラス・マッカーサーは父アーサーと同様、フィリッピンに莫大な利権を持ち、米資本の在比企業に投資し、巨富を得て、公私混同が著しい貴族主義者でした。米西戦争でスペインからアメリカに統治権が移った比島は、米の植民地からの独立のため臥薪嘗胆で臨み、後の初代大統領ケソンは、この貴族趣味の将軍が、FDRに楯突いて予備役に編入された時代は、まだ軍隊も存在しない比島の陸軍元帥として招き、マニラホテルのスイートに住まわせ、王侯貴族のような待遇で処したと言われています。米の軍事顧問団以外は部下もいないのに、王様の気分だったようです。まあ、戦争中は、軍人として有能だったかも知れませんが、型破りで傍迷惑な将軍だったことは確かでしょう。


結局、トルーマンは、この危険な野心家である将軍を更迭しました(彼は大統領選挙への野望があり、惨敗したとはいえ四八年に出馬したのです。米国の法律では現役の軍人は大統領になれない決まりがあったのですが、それすら彼は無視していました)。解任されたマッカーサーは、さすがに傷心の様子でしたが、帰国後、ウェストポイントで「老兵は死なず、ただ去りゆくのみ」という(兵士の間の風刺歌を引用した)名台詞を残して退役します。その後の公聴会で将軍はかなり追いつめられましたが、依然、国民の間での人気は高かったようです。しかしながら、回想録によると「五〇発の原爆を満州に投下し、中ソの制空権を壊滅させる」ことなどを本気で提言していた由ですので、正しい更迭だったとしか言いようがありません。四期なかばで仆れたFDRの後任として、任期中は冴えず再出馬もしなかったトルーマン大統領でしたが、最近では狂気じみた将軍の暴走を抑えてシビリアン・コントロール下においた名元首との再評価をされているそうです。


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二十一世紀の若い人たちは、「第三次世界大戦」という言葉にリアリティを感じないでしょう。
実際に、すでに時代はそういう世紀ではないからです。その後、ソ連崩壊により、米ソという二大強国が核をかかえて対峙している、という構図がソ連と冷戦構造と同時に消え去った、という事情があります。また、それ以前にすでに「核戦争」という戦争の形態すら時代遅れになっていました。あるのは、七五年までのベトナムや中東のように、二大大国の思惑に左右され、局地的な「代理戦争」をする、引き裂かれた第三世界の諸国という現実です。
二十世紀末の一時期、「低烈度紛争」と呼ばれた、その新しい形の戦争は、今、「非対称戦争」と呼ばれています。非対称とは、片方が正規軍ではない、ゲリラだったり、テログループだったりで、戦略も戦術もまるで普通の戦争とは異なるからです。


もし産油国でなかったとしたら、中東は、何の意味もない沙漠の辺土だったでしょうが、二十世紀初頭に油田が発見されて以来、そこは地政学上、要衝の地と化しました。そこで米ソが、あるいは冷戦構造が崩壊した後の米ロが好き勝手やったツケが、今世紀に入って、九・一一の事態を引き起こしたわけですが、それ以前の第三世界(この言葉も死語かも知れませんが、世界が自由主義の西と社会主義の東に分かれた後の発展途上国をそう呼んでいたのです)が問題です。文字通り、ポストコロニアリズムの世界です。


しかし、キューバ危機を乗り越えて、「なにも、われわれ大国同士が相打ち覚悟でミサイルの打ち合いをすることはない。代理戦争で十分だ」と米ソが考えたのが、おそらく、その時です。それ以後は、米ソという二大大国は、そうした「代理戦争」の後方を担当する支援的宗主国となります。ケネディは、WASP(ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント)ではない大統領であり(白人ではあるが、アイルランド系でカトリックです)、軍産コンプレックスと衝突し、そのためかどうか、暗殺されました。副大統領のL・B・ジョンソンは目の前でJFKが暗殺されて慄え上がり、その言いなりになったと言います。以後、軍産コンプレックスの意向に逆らった大統領は、まずいなくなった由です。おそらく、選挙前の党による指名選挙の時点で、そうした人間は排除されているのだ、と思われます。


むろん、こういった「陰謀論」などなく、JFK暗殺は、ソ連に憧れて、しかもそこからも排斥されたオズワルドという狂信的な一人の男が起こしただけの事件だ、という人もいますし、他にも、ギャングの女を寝取ったのでマフィアから殺されたのだ、というような異説も数多くあります。しかし、現実には、その後の米史上、暗殺された大統領は、一人のジョディ・フォスターのファンだった少し狂った男がレーガンを狙撃した以外、いません。レーガンは深刻な状態でしたが手術により、からくも生命を拾い、未遂に終わりました。二人のシークレットサービスも後遺症を残したり、それが元で亡くなりましたが、とにかく暗殺されたアメリカ大統領は、今のところJFKが最後です。


そこで、キューバ危機以後の世界の「戦争」は代理戦争以外、なくなりました。
さらに二十世紀末から、特定の地域で起きる小規模な戦闘行為は、「低烈度紛争」と呼ばれるようになり、二十一世紀に、それは「非対称戦争(Asymmetric War)」と呼ばれています。「非対称=アシンメトリー」とは、敵味方があまりに釣り合わないもの同士の戦いだから、そう称されるのです。正規軍同士が戦っていた従来の戦争とは異なり、戦術も戦略も予想外の交戦となることから、これらの主にテロとゲリラ戦を中心にした戦闘は、しかし、軍事テクノロジーを究めたアメリカなど大国でさえ、防御が困難になる(予想できないので、対応策すら取れない)戦いに巻きこまれていきます。事前の情報活動が全てとなり、違法な盗聴その他が国際的規模で謀られ、同盟国の国家元首の通信さえ傍受している、というエシュロンの存在はもう自明のものとなりましたが、国家の安全が最優先され、もはや誰も止めようとはしません。
しかも自国軍兵士の死を恐れるアメリカ政府は、戦争すらアウトソーシングし、現実に前線で危険な偵察や戦闘をおこなっているのは民間の軍事会社の社員であり、空爆ですら、遠隔操作のドローン(無人機)による爆撃です。地下に防空壕を構築する組織的テログループに対しては、バンカーバスター(地中貫通爆弾)で対応し、とにかくアメリカは自国の兵士の死傷者が少なくなるようにテロとの戦いを世論を気にしながら遂行しています。
なにもかもが、第二次大戦時代とは異なっているのです。


二十世紀の末頃までには、ソ連崩壊により、アメリカ一強の世界になっていました。しかし、その奢りが主に中東に向けられ、ついに湾岸戦争となり、ムスリムの怒りを買います。産油国クェートを侵略したイラクを膺懲する、という実際には石油資源の確保だけを考えて始めた戦争は、結果的に、イスラムの聖地メッカとメディナが在るサウジアラビアに、異教徒のアメリカ人が土足で侵入し、その軍を駐留させた(イラク襲撃の拠点として、サウジの地が必要だった)イスラム全体の「恥辱」となり、そのこと自体、聖地を穢された、とムスリムの眼には映ったのです。しかし、そのことにアメリカ人は長く気づきませんでした。


ビン・ラディンは、サウジアラビアの裕福な家に生まれましたが、早くから政治に目覚め、ソ連のアフガニスタン侵攻の際には義勇軍として参戦して、当時、パキスタンを介してアメリカは軍事援助をしていたのですが、それを資金に、その地にアルカイダを創成、育成し地歩を築いていました。しかし、アフガニスタンからソ連が撤退した後、湾岸戦争での連合軍の聖地蹂躙へのビン・ラディンの怒りは、今度はアメリカに向けられます。つまるところ、ビン・ラディンにせよアルカイーダにせよ、アメリカが育てたようなものです。超大国アメリカは、他国の屈辱には鈍感ですが、たとえばイスラムが何らかの作戦のため、バチカンやサンピエトロ寺院に土足で踏み入れたら、そりゃ怒るでしょう。同じことなのですが、それが判らないのがアメリカです。
そこで、イスラムの恥を雪ぐため、ビン・ラディンは未だかつて誰も考えたことのないテロ戦術を考案するにいたります。


かつて、ロバート・ワイズ監督、スティーヴ・マックィーン主演で、二〇年代の中国の南京事件を背景にして、六六年に製作された映画「砲艦サンパブロ」(日本での公開は六七年)で、揚子江沿岸の権益を守るため、米戦艦が配備されているのですが、そこで確か、マコ岩松演じる中国人が主人公に対して「もしミシシッピー川に異国の戦艦が自由に航行していたら、貴君はどう思うのか。それと同じことを貴君らの国は我が国に対して行っているのだ」と言うシーンを思い出しました。大国は自国の利益を優先し、他国を蹂躙して、それをそうとは自覚もしないのです。
なお二七年の南京事件や、その後の漢口事件では、大日本帝国陸軍は、かつて尼港事件でニコラエフスクの軍民がパルチザンから皆殺しになった教訓により、領事や政府の指導で無抵抗のまま、兵が死傷し、婦女子が暴行を受けても、なお陸戦隊を動かすことがなかったのですが、米英は同様の被害に対して、艦艇から城内へ艦砲射撃で応じ、陸戦隊を上陸させました。しかし日本だけ無抵抗を貫いたことが、中国人の日本への侮りとなり、漢口事件につながった、として、その後の日中関係に多大の影響をあたえ、陸軍の「暴戻の支那を膺懲する」といった発想の元になります。閑話休題。


二十一世紀になってすぐ、それは九・一一の同時多発テロとなって跳ね返りました。
WTC(ワールドトレードセンター)ビル、その二連になってそびえるアメリカの富の象徴のような高層ビルに二機の米ジェット旅客機が突っこんで、たったそれだけでその巨大な構築が、もろくも炎上し崩壊していく様をTVで見ていて、私は戦慄した憶えがあります。おそらく、世界中で同じ感想をいだいた人たちが多かったでしょう。
戦慄と同時に、こうした攻撃の仕方があるのだ、という驚きと、それを思いついた恐るべき人間の暗い理知に思いを馳せたものです。どういう悪魔的な思考をめぐらせれば、ごく普通のジェット旅客機がミサイルに匹敵する兵器に変わるのか。アラーへの狂信的信仰といっただけではない。当然、そこには綿密で精密な事前計算がなされたであろうことを想像すると、怖くなりました。


飛行機をハイジャックする行為は、二十世紀からありましたが、それは何か別の目的のための手段であり、その目的とは、犯罪者やテログループの逃走、収監されている仲間の解放とか、乗客を人質にした身代金の要求とか、そういう二次的なものでした。ところが、ビン・ラディンはそういう常識を一変させたのです。ハイジャックした大型ジェット旅客機をケロシン燃料ごと凶器に換えて、他国の、それも富を象徴する一万数千人の人間が居住ないし仕事をしている建物に突っこませ、日常的な生活を一撃のもとに炎上崩壊させる、という恐るべき奸計が、とても私には信じられませんでした。


しかも、それだけではなく、このアタックは同時多発で起こりました。精密に計算されたスケジュールで、同じ日に四機の旅客機がハイジャックされ、WTOとペンタゴンと、もう一つの標的(これは絶望的に勇敢だった乗客が阻止して、旅客機ごと墜落したので詳細は不明ですが、おそらくは、米議会議事堂かホワイトハウスが標的だったと思われます)を同時に狙い、撃ったのです。
たとえ思いついたとしても、一人の人間が考えて実行できるタスクではない。おそらくは数百人もの協力者、それもイスラムの殉教の死をいとわぬ覚悟の決死の同志がいなくては可能にはならない。また、これほどの作戦となると、計画立案から実行にいたるまでには、最新鋭のコンピュータを使った演算やシミュレートが必要です。ブラックハックによるクラッキングも当然、あったでしょう。そして、それだけの事を構え、実際にやってのける人間の暗い強い意志を、もろくも崩れる高層建築の惨状の中に、私は暗澹と見る思いでした。高高度に進化した西洋キリスト教の文明を、もう一つの、沙漠の中から生まれた不動の理知が、さらに高高度に進化した文化によって、最小限の人数で破壊しえる。
世界は最早、そういう時代になっていたのだ、ということを、あらためて思い知らされました。そして、同時に、これは一つの終わりではなく、終焉の始まりなのだ、ということも判ったのです。


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私は、当時のニューズ映像で、どこかの小学校か何かを視察中にWTC攻撃の一報を聞いたブッシュ大統領が、やや茫然と「十字軍だ(クルセイド)」と口にした言葉をかすかに憶えているのですが、今、資料をひもとくと、その事実は出てきません。ちょっと不思議な気分です。確かに私は、茫然と座った大統領が、そう言うのを聞いた気がするのですが。思い違いかも知れません。
しかし、その数日後、ブッシュは、明白に「この十字軍、このテロとの戦いはしばらく時間がかかりそうだ(This crusade, this war on terrorism, is going to take a while)」という声明を出したのは確かです。ここで「十字軍」という用語を不用意に選んだブッシュの無思慮は非難されて然るべきでしょう。それはイスラムにとって、否応なく一千年の時を距てて、理不尽なキリスト教徒によるイスラム世界への侵略の歴史を、まざまざと思い出させるはずだからです。


九・一一は「米本土」に対する「史上初めての攻撃」で、それは全てのアメリカ人にとって、あってはならない事態でした。その六十年前に、大日本帝国海軍は確かにハワイ島に真珠湾攻撃をしましたが、あれは米海外領土ハワイ州であって「本土」ではなかった。アメリカという国は、建国以来、ずっと他国を侵略し続けましたが、それまで一度たりとも本土(ステーツ)に爆撃を受けたりしたことはなかったのです。それが、建国二百年にして初めて米国本土が攻撃を受けた衝撃は、それを率いるべき大統領をして茫然とさせるに足る事件でした。
しかも、米諜報機関はこの大事の前に、何かが起きるかも知れない、という情報だけは収集していたのです。爆発的に増えたイスラム系の情報発信、不穏な人の動き。それらを全て見過ごした情報分析の不始末から、その後、ペンタゴン麾下の国家安全保障局(NSA)は面目を失ない、九・一一の翌年、テロとサイバーセキュリティその他の安全保障を集中させた国土安全保障省(DHS)が発足します。しかし、実態はいまだ組織として真っ当に機能していない、という話も聞きます。


しかしながら、当日にブッシュが口走ったと思うのは、あるいは、私の記憶ちがいかも知れませんが、その衝撃を「十字軍」すなわちキリスト教徒にとっての「聖戦」だと数日後に公式声明で発言したのは、それが攻撃をしかけた、おそらくイスラムの戦士たちにとっても「聖戦(ジハード)」だ、という認識がどこか心のすみにあって、それが無意識に口について出たのか、とも思われます。


歴史的にみる十字軍は、まったく弁解の余地がない、キリスト教徒にとってのみの身勝手な「正義」で、当時、イスラム教圏の版図内にあったエルサレムを「異教徒」の手から奪回する目的の軍事行動でしたが、もとより「異教徒」と見なされたムスリムたちにも、「聖戦」の概念はありましたし、今もあります。「ジハード」は、ムスリムたちにとっては、それに参戦して死んだとしても、アラーに言祝がれて殉教者として天国に行ける、という強い信仰に支えられた、彼らの神に拠る「正義」なのです。この信念は開祖ムハンマドから現在にいたるまで千四百年間、貫かれていて、いかなるクリスチャンよりも強固な宗教的大義です。


しかも、九・一一は、聖戦どころか、「戦争」ですらない。少なくとも、これまでの西洋的な国際法にのっとった戦争行為ではありません。それを「戦争」と規定した段階で、もうブッシュは「非正規戦争」という敵のフィールドに上がってしまっている。そしてこの「戦争」には、最終的に、おそらく誰にとっても「勝利」はないのです。


私は、こうしたテロ行為や、あるいはそれに対するカウンターテロの「新しい形の戦争」を、特定の宗教や民族に結びつけて把える考え方じたいを否定するものです。そもそも「聖戦」という言葉そのものが、不適切だと思う人間ですが、しかし、当事者であるアメリカ大統領が、「十字軍だ」と呟かざる得ないことは、なんとなく判る気がします。非対称戦争であっても、それは鏡の国の出来事のように、対称的でした。彼我の差は関係ない。どちらも、自分たちが正義だと思っている。そして攻撃をしかける。いつまで経っても終わりがない。それは鏡の国の戦争のように見えました。


とはいえ、ブッシュの、つまりはアメリカが主体となった実際の「聖戦」は、誰がどう見ても、八つ当たりに見えました。九・一一事件の主犯がアルカイダであり、その指導者がサウジアラビア出身のウサマ・ビン・ラディンであることは、すぐに明らかにされましたが、犯行声明はまだ出ておらず、ビン・ラディンの主導による犯行である十分な証拠がない状況でした。当初、ビン・ラディンは、「自分たちとは無関係だ」と公然と言っていたのです。彼が自分の犯行だと認めたのは、パキスタンに逃れて潜伏した後の、〇四年の声明が最初です。しかも、国際法的にも、特定の国家ではなく、テロリストに対する「集団的自衛権」は法理上の問題もあったのですが、頭に血が昇った米国の冷静さと理性が失なわれた中での、それは「十字軍の開戦」でした。


〇一年十月七日、事件から一ヶ月経たぬうちに、アメリカがまず攻め入ったのは、アフガニスタンでした。ビン・ラディンがアフガニスタンに拠点を持ち、アルカイダを擁していたのは、米諜報機関も突き止めていたからです。しかし、タリバン政権がアルカイダとビン・ラディンの引き渡しに応じなかったため、集団的自衛権の発動による有志連合(米英仏独加)がアフガン侵攻に踏み切りました。国連安保理決議一三七三が採択されましたが、侵攻したのは国連軍ではなく、英仏独加ら「有志連合(Coalition of the willing)」の混成軍でした。それゆえ、日本では、この戦いは戦争ではなく「アフガニンスタン紛争」と呼ばれています。まあ、英語では「War in Afghanistan」なので、区別はありませんが。


しかし幾つかの局面での「怯み」によって、追いつめながらも、取り逃がし、ついにカブールから旧ソ連時代にCIAが資金を提供して造営されたパキスタン国境地帯の地下に構築されたトラボラ軍事基地に逃れたビン・ラディンのパキスタンへの脱出を、有志連合軍は許してしまいます。タリバンが支配する首都カブールを失陥させても、もともとゲリラの集団であるタリバンもアルカイダも、生まれ出ずるところであったアフガンの荒野に消え去り、米の侵攻はタリバン政権を打倒しただけに終わりました。もともと複数の政治権力が拮抗していたアフガニスタンではパシュトゥーン人のカルザイ大統領を首班とする暫定政権が樹立しましたが、現在にいたるまで、混乱は続いています(未だ、「終戦」はしていません)。アメリカは何の宣戦布告もなく一つの国を蹂躙し、政権ひとつ倒して、その後の終戦処理をすることなく、国連に押しつけて去ります。


カブールのタリバン政権を落とした段階でブッシュ政権のアメリカはアフガニスタンへの関心をもう失なっていたと思われます。肝心のビン・ラディンを捕らえることも殺害することも出来ず、竜頭蛇尾の成果しか上げられなかった。大見得を切って「十字軍」を宣言した大統領も、振り上げた拳の置きどころがない。八方ふさがりですが、どこかに敵を見つけなければ収まりがつかない。
そこにCIAがイラクが大量破壊兵器を所有している、という確度の低い情報をもたらしたことで、いわばパパ・ブッシュの仇をジュニアが討つ格好で、あまり国際世論の賛同は選らなかったのですが、結局、ふたたび有志連合による戦争が開始されました。あやふやな法的根拠と証拠に基づく、目標がアフガニスタンからイラクに移っただけです。


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ブッシュ・ジュニアはパパ・ブッシュが九一年の湾岸戦争で勝利したにも関わらず、内政面での失政により一期で大統領職を失なったことへの報復のように、ふたたびイラクへ侵攻します。理由は、CIAの報告だけで(反サダム派のゲリラによる情報だと言われています)、肝心の大量破壊兵器とやらが、どういう実態かも不明なまま、開戦に踏み切ったのです。しかも戦後の調査で、イラクはそうした兵器を持っても隠匿もしていないことが確認されました。


これ以上なく、大義なき戦争だったわけです。実際、今回のイラク攻撃に賛同し有志連合に名を連ねたのは英豪、それに何故かポーランドだけでした。他の仏独中ロら諸国はイラクに利権を持っていたために、攻撃に反対しましたが、米英は空爆に踏み切ったのです。いったん戦争が始まると、日本の小泉政権をはじめ、いくつもの国が同調しましたが、ここでも、アフガニスタンと似たような結果しか得られませんでした。独裁者サダム・フセインを捕らえ、その政権を倒しただけです。そして戦争の理由とした大量破壊兵器は見つかりませんでした(捕縛されたフセインは、あると見せかけて抑止力とした、と証言したそうですが、本当かどうか判りません)。


さらに言えば、暫定政権がフセインを裁判にかけて処刑したことで、中東に新たな混乱を招きました。おそらく世界中の独裁者が戦慄したでしょう。八九年に、ルーマニアのチャウシェスク政権を襲った「赤い王朝」の崩壊の再来です。


管見かも知れませんが、私は、イラクのフセインが戦争のリスクを覚悟の上でクウェート侵攻したのは、むろん、八八年に終戦したイラン・イラク戦争で疲弊した国力の増加もあったでしょうが、なによりも、八九年のルーマニア崩壊に怯えたからではないか、と考えています。イラクは、イスラエルにより核開発は抑止されましたが、当時、中東最大の軍事大国になっていたとはいえ、原油価格の暴落で、長い戦争で疲弊した経済の安定が図れず、かなり焦っていたのです。暴落の理由は、OPECで原油価格の引き上げを申請しても却下され、しかも、サウジアラビアはサウド家が持つ私的油田から原油を売りさばき、クウェートやUAEもOPECを無視して石油販売をしたために起きていました。だからイラクが小国クウェートを襲ったのには、それなりの理由があったのですが、むろん、誉められた話ではないし、欧米諸国の反撥は必至だ、ということも判っていたのに、あえて侵攻したのです。その動機は、いくらイランとの戦争で成果を挙げようと、経済で失政すれば、いつチャウシェスクのように排除されるか判らない、という怯えがあったのではないか。
そして、イラクのフセイン政権が、あのように倒され、独裁者が民衆の手に引き渡されたら、当然のように人民裁判の結果、縛り首の憂き目に遭う。それを目の当たりに見て、またしても、世界中の独裁者に衝撃が走ったことは想像にかたくない。だから、私はノースコリアが核武装に本気で取り組みはじめたのは、フセインの死に怯えたからではないか、と考えています。むろん、さしたる根拠はないのですが、そうしたことが出来しないように、世界の警察たるアメリカは、もう少し隠忍自重すべきであったのではないか、と思うのです。少なくとも、独裁者が恐怖する連鎖をどこかで断ち切る方法で、戦争も推移する必要があった。


イラクは原発を造ろうとして、イスラエルのピンポイント爆撃を受けて断念したのですが、核さえ持っていれば、フセインは死なずにすんだ。狂信者のムスリム以上に気の狂った大統領に率いられている超大国アメリカは、何をするか判らない。これと同じことが極東で起きるとしたら、もう核武装して生きのびるしかない。ノースコリアの支配者にそう思わせたのは、アメリカの中東での暴走が原因だと思うのです。少なくとも自分が独裁者なら、そして「世界の警察」を気取るカウボーイ頭に率いられるアメリカという狂った帝国が支配する世界で生きのびるためには、核を持つしかない。キム王朝がそういう思考回路に陥ったからといって、責められないでしょう。


むろん、私はそういう考え方に与するものではありませんが、独裁者の思考回路が、そのようなものである限り、中東におけるアメリカの暴戻は、取り返しのつかない波紋を全世界に拡げた、と言うべきであり、アメリカと、その同調者たちは、そのツケを払うしないでしょう。もちろんイラク戦争に安直に同意した当時の日本にしても、その責任は免れない(当時の小泉政権は米の侵攻に対して「理解する」ではなく「支持する」と声明を出しました)。


そのように解釈しなければ、何故、ノースコリアが、二十一世紀に入って、あのように死に物狂いに、なりふり構わず核開発をしたのか、説明が付かないのです(核開発自体は、朝鮮動乱後からずっと行なってきましたが、急速に成果を上げたのはイラク戦争以後で、〇三年にNPTから離脱し、〇五年には核保有を宣言しています)。人口二六〇〇万弱の最貧国でさえ、やる気になれば核武装できるのです。米は、中東に打ちこんだクサビのために、極東で新たな危機を生み出しました。すべて米とブッシュ大統領の責任です。


そして、こんどは、イラクに投じられた石の波紋が、結果的に中東に「アラブの春」と呼ばれる民主運動となって広がっていくのですが、アメリカの終戦処理が十分でなかったせいもあり(イラク戦争が完全に終結したのは、二〇一〇年。ブッシュ政権の後の、オバマ政権であり、全米軍が撤退したのは、さらに一一年十二月のことでした)、この戦争が、あたり一面に数多くの独裁者がいて、東西冷戦構造の名残のような、さまざまな利害がからむ中東全域において、独裁者を倒しても、内戦になる、あるいは、独裁者を倒すために、テロ組織が国中を跋扈する、といった収拾の付かない猛烈な混沌が広がっていく契機をつくったのは、まぎれもない事実でしょう。
第二次大戦で日本と戦ったアメリカには、まだ、そういう理知と冷静さが有りました。彼らは、開戦する前から、すでに日本の敗戦後に、それをどう占領統治するか、それを事前に研究するだけの余裕があった。しかし、九・一一以後のアメリカとその大統領には、そうした心のゆとりが感じられません。それが結局は世界的な混乱を招いている。


チュニジアでは、失業率が高く、その不安定な政情下で、二〇一〇年十二月に、一青年が抗議の焼身自殺を図ったことが発端となって起きた「ジャスミン革命」は、腐敗した政権を崩壊させます。それはたちまち中東全域にひろがり、「アラブの春」と呼ばれる革命の連鎖を生じました。
もともと、アラビアのロレンスの時代から、西洋人の目には見えない秘密結社のネットワークが蜘蛛の巣のように張り巡らされている、と言われたアラブ諸国です。
現代の革命的ムスリムたちは、狼火や電信の代わりに、TwitterやFacebookなどのSNSを使って、そうした秘密の連絡網を張り巡らせて、アッという間に翌一一年には、ヨルダンの脆弱な内閣が総辞職したのを皮切りに、エジプトでは三十年間続いたムバラク政権が崩壊、カダフィ大佐が率いるリビアでも、デモから内戦へと拡大し、国連の制裁やNATOによる軍事介入があったとはいえ、通常ならば考えられない速度で、四十二年間つづいたカダフィ政権は崩壊し、カダフィ大佐は殺害されました。
しかし、どこでもそう都合よく事が運ぶはずもなく、シリアでは、アサド独裁政権への反体制組織が乱立し、内戦状態は今もなお続いています。背後には、アサド政権を支援するロシアや、シーア派のイランの影がありました。アルカイダ系の、「イスラム国」を自称するISILや国内のスンナ派とシーア派の内訌から、内戦は泥沼化して収拾が付かない状態です。


独裁者を倒したリビアやイェメンでも民主化を求めた暫定政権が倒れ、内戦になりました。エジプトでは独裁者ムバラクを倒してすぐに、ムスリム同胞団の大統領が軍事クーデタで倒され、また軍事独裁の体制にもどるなど、「アラブの春」は「アラブの冬」となって今に至っています。かろうじて、当初の目的だった民主化を実現し、その政権が存続しているのは、発端となったジャスミン革命のチュニジア一国だけ、という惨状です。あとは手のつけられない政治的混乱や内戦に陥っています。


その端緒となった「十字軍」の戦争を始めたアメリカは、重大な責任がある。だのに、その役割を果たさずに、飛蝗(ロカスト)のように、あるいは燎原の火のように敵対する国の領土を焼き滅ぼしつくして、後はただ、風のように立ち去るだけなのです。
こんな無責任な話はないでしょう。すべては、一度も本土攻撃をされたことがない「帝国」が九・一一の一撃を喰らったことによる、怯えの裏返しのようなヒステリックな戦争ごっこと、その結果に過ぎないのです。
 
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