“モノがない“ことは、ある種の“解放”を生み出すと思う。
僕は“モノがない“国が好きらしい。
例えばラオス。作家・村上春樹氏が「ラオスにいったい何があるというんですか?」という本を出すほど、何もない。メコン川で釣りをするくらいだろうか。しかし、僕はラオスが好きだ。
そしてもう一カ国、キューバが好きだ。ただ、キューバは真っ直ぐな社会主義国。物質的な煌びやかさはない。さらに、昨今の日本では電気代やガソリン代の高騰がニュースとなるが、キューバはそもそも電気やガスがまともに通ってない。
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さて、インフラも娯楽も乏しいキューバだが、人々はなぜかいつも楽しそうだ。ラテンの陽気さが身体から溢れ出している。
その理由を説明するならば、キューバンジャズ、サルサダンスがキーワードとなる。
キューバ人は元より音楽好きなのだが、例えば音楽アプリ「Spotify」の使用はキューバでは禁止されている。音楽を聴くことを奪われた彼らは、自らが音楽=キューバンジャズを演奏することに。
あるいは、楽器が手に入らないならば、友だちや恋人とサルサダンスを踊る。
一見ネガティブな話に感じるかもだが、必ずしもそうではない。彼らは子どもの時から(他に選択肢がないため)音楽やダンスに明け暮れる。遂にはそれらのスキルが磨かれ、得意となる。そして、日々得意なことを表現することで、充実感を得ることができる。これがキューバ人の明るさの理由だ。
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僕自身も、在キューバ時は生活に充実感を覚えていた。好きでもなかったはずの、読書と語学。キューバではいよいよ他にすることがなく、励んでみたのだが、気付けばなんと好きになっていた。
結果として、他に楽めるエンタメはなくとも、好きなことを続けられるのだから、キューバでは充実感を獲得していた。日本にいたら3日で他の選択肢に心が揺れ、読書も語学も好きになることはなかったはずだ。
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普段の日本の生活からしたら、そんなのは制限されたものに感じるかもしれない。けれども果たして、僕は日本であれほどの充実感を獲得できるのか。
日本では選択肢はたくさんある。けれども、その選択肢の多さが、むしろ何かに夢中になることへの妨げになってはいないか。
逆に言えば、“モノがない“ことは、ある種の“解放”を生み出すと思うのです。
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