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現実でゲイを見つけるのは難しい【Love, Simon】

君が送ってくれたあの画像の観覧車で、僕は君が来るのを待つよ。
っていうシチュエーションはとってもロマンチックだけど、周りに観客がいる中で、しかも同級生が見守る中で待ち続けるというのは、私だったらイヤだな、と思う。

しかも待ってる相手の人も自分がゲイであることをまだ知られたくないって言ってるのに、みんなの前に飛び出すということは、イコール自分がゲイでメル友でした、っていうことをカミングアウトするようなもんじゃない?
劇中で「カミングアウトするタイミングは自分で選びたかったのに、お前のせいで台無しだ!」って言ってたけど、それは待ち人の相手にも言えることじゃないの?
って今書きながら思ったけど、別にバラした訳じゃないし自分の意志に任せた訳だから、まあいいのか。

他人の恋愛を応援するとか、他人の恋の行方を見守るとかって、アメリカ人の気質なのかそういう文化なのかノリなのかわからないけど、自分はそういうのイヤだなって思う。
もし自分がアメリカ人の中で育ってたらどうなってたかわからないけど、日本人の私としては、野次馬気分の他人に応援されたくないし冷やかし半分で見られたくない。

日本人の中でも特に他人に干渉されたくないので、人前でのアピールなんてまずあり得ない。
から沢山の人が見る掲示板で「いついつどこで待ってます」なんて宣告できない。
でもそれができたのは不本意ながらもバラされたことで、逆に肝が座ったのと、”ブルー”の正体を突き止めたいから、という気持ちが勝ったのかもしれない。
そしてそんな一途な気持ちに答えようと、勇気を振り絞ってゲイバレを乗り越えて飛び出していった彼らはすごいなと思う。


いきなりラストシーンから書き始めちゃったけど、やっぱり一番気持ちがモヤモヤしてたから、最初に解消したかった。
待ち人を待つ人をあんなに取り囲むのは、彼がゲイだからなのか、それとも性的趣向関係なく興味があるからなのか。

観ているゲイからすれば、「ゲイだから」気になるんだろうなあという目でしか見れないのだけど、これは私の性格がねじれてるからかもしれない。
ゲイを題材にした作品だから、周りの人も「ゲイ」として見るから、「ゲイが何をやるか」という視線で見ているようで、それがなんとなく頭の隅にあってなんだかモヤモヤしてしまうのだ。


青春もの、特に学園モノなんかは登場人物が若いから眼福だったりするのだけど、でも学園モノは必ず学生同士、親友同士で問題やいざこざが発生するからあんまり好きじゃない。
特に学生ってやることとか結構陰湿だったり度を超えてたりするから、見るのが辛くなってくる時がある。
自分なんか学生の頃は良い学生生活じゃなかったから、余計に昔を思い出す感じになるのもあって。
だからあんまり観たくない。

人の弱みに付け込んで自分の夢を叶えようとしたりする奴なんてろくでもない奴だと思っていたけど、本当にどこまで行ってもろくでもなかった。
最後の最後なんか笑えないジョークを言ってきたり、罪滅ぼしでもう一回乗っていけよなんて言ってお金払ってたけど、お前の金で成就したくないわ! っていうのがホントのところ。

自分の弱みを握られてしまったのが人生の狂いどころだけど、本当にうざくて面倒な人に絡まれるともっと悪い方向に転がってしまうので、付き合う人は選ばないといけないですね、っていう教訓にします。


自分がゲイである、でも誰にも言えない。
そんな悩みに悶々としていたところに、自分と同じゲイの人が身近にいるっていうことがわかれば、同じ境遇を持つ者として近づきになりたい。
誰がゲイで誰がストレートかなんて見分けがつかないからこそ、同じ話ができる相手がほしい。

ネットが発達したからといって、同じ学校に、同じ職場にゲイがいるかなんてわからない。
マイノリティだからこそ、ゲイがいるなら誰か知りたいと思うのは当然のこと。
もっと身近にゲイの自分として話せる人がいるのといないのとでは、息のしやすさも変わってくるだろう。

Love, Simon / 2018

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