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身勝手な自己開示


私は自分の話をするのが好きだ。
自分の話で笑ってもらうことが好きだ。
楽しかったこと、悲しかったこと、自分の中の喜怒哀楽を共有することが好きだ。

友人に話すのはもちろん、noteやTwitterに書き、話を聞いてもらうためだけに売り専を買ったりもする。

就職活動における面接なんて、ひたすら私に対しての質問をしてくれるものだから楽しくて仕方がなかった。

それほどまでに、私は「自分を知ってほしい」という欲望が強いのだと思う。
承認欲求とはまた違う、ただただ共有したいという欲望がひたすらに強い。


自分の話をするということは、自己開示をするということである。
自己開示とは自分の情報を伝えることである。
楽しい経験だけではなく、悲しい経験やそれに基づく思想などももちろん含まれる。
私はそれらの開示に対してあまり抵抗がない。

特に関係値の浅い相手との場合、話のきっかけにもなるし、警戒心を解く手伝いもしてくれる。

また、幸いにも私は悲しかった経験を笑い話にする能力が少しだけ秀でている気がする。気がするだけかもしれないが。

そのため、そういった話をすると相手は大いに笑ってくれる。

しかし、大人になって気付いたのは、初手で自己開示をしまくり築いた関係はとても脆いということだ。
それどころか、そもそもの関係性ができていなかったと実感することも多い。

たしかに相手は笑ってくれるし、警戒心は解いてくれるかもしれない。
ただ、同時に莫大なプレッシャーも与えてしまっている。


「口が悪いです」とか「気分屋です」とか、自分からそういった類のものを発している人間が私はあまり得意ではない。

そんな他人に迷惑しかかけない性格ならば直した方がいいし、そもそも伝える必要などないのだ。

しかし、結局これも一種の自己開示であり、私がやってることと何一つ変わらない。
過去まで背負わせようとしている分、私の方がもっとたちが悪いのかもしれない。



私はこういう人間です。

私にはこういう過去があって、それゆえこんな信念があります、受け入れてください。


なんと傲慢で身勝手なものか。

関係性ができていない段階での自己開示、特に悲しい過去体験などは、相手に選択を許さない。

相手はそれを受け入れるしかないのだ。
とてつもない重圧である。

こういった強要のもとに築かれた関係性は、やはり少し歪なものになってしまう。


ただ、自己開示が関係の構築に役立つ側面があるのは事実であるし、一定の関係値であればより深くなるのも事実である。

そこの線引きが存外難しいのだ。
未だに私は悩んでしまう。

私は自分で思っているより頭が悪く
自分で思っているより感情的で
自分で思っているより優しくないのだろう。

自分の情報と相手との関係値を上手く天秤にかけられず、知ってほしいという欲望のままに話し、相手の立場を慮ることができない。

相手との縁が切れてしまったとき、ようやく自分の過ちに気付くのだ。

ここ数年で少しずつ変われてきた実感はありつつ、やはりまだまだ難しい。


また、関係性ができていないからこそ自己開示がしやすいという側面もある。

私の中の代表例でいえば、ゲイであることのカミングアウトがそれにあたる。

初めて会った人や友人の友人など、関係性の薄い人には話の流れで簡単にカミングアウトができる。
言葉を選ばなければ、正直終わってしまっても問題のない関係だからである。

しかし、ある程度関係性ができてからだと、やっぱり怖い。
嫌われたらどうしよう、関係が終わったらどうしよう、と。

受け入れてもらえなかったらそれまでの関係だった、なんて割り切ることは私にはできない。
それがたとえ自分ではどうしても変えることのできない要素であったとしても。

もしその情報を隠すことで相変わらず仲良くいられるのであれば、私はどんな情報であれ墓場まで持っていく。


だからこそ、弱い私は関係値の浅い最初の段階であらゆる自己を開示してしまうのだろう。
それゆえに正常な関係を築くことが難しく、悲しい連鎖になってしまっている。

関係性を見極め、相手に負担をかけない程度に自己開示をしていく。
これがもしかしたら「大人の余裕」と呼ばれるものなのかもしれない。



これほどまでに自己開示をしてしまっている私に対して、自己開示と関係性が相関関係にないことを伝えたい。

私にはカミングアウトをしていない友人がたくさんいる。
私の過去を知らない友人もいるし、私の本名を知らないゲイの友人もいる。

それでも、彼らは間違いなく私の友人である。

それはまた逆も然りで、私も彼らのすべてを知っている必要はない。

その相手に自分の何を知ってほしいか、相手の何を知りたいか、それはもう人それぞれなのであろう。

そこに関係の濃淡はなく、2人だけの関係ができあがる。

だからこそ、焦らず、自己開示とともに相手との関係を丁寧に育んでいきたい。



軽率にありとあらゆる自己開示をしてしまう私だが、実のところ心の中には鍵のかけた部屋がある。

どれほど仲の良い友人にも、大好きだった元恋人たちにも、その部屋の中を見せたことはない。

その部屋には口にはしたくない言葉があり、触れたくない過去があり、語りたくない夢がある。

これらは決して否定されたくない私そのものであり、理解されるための努力さえ絶対にしたくないものである。

大切に、自分だけが入れるように鍵をかけている。

そんなことを言いつつ、もしいつか、その部屋の鍵を渡してもいいと思える人に出会えたのであれば、それはもう幸せと呼ぶほかにないのだろう。

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