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きっとそれは然るべきカタチになる。

とても印象に残っているドキュメンタリーがあって
イタリアの小さな町に住む2人の方にフォーカスしたものでした。
自分より先に大切な人がこの世を去った悲しみを抱えながらいつもの日常を過ごす。

心の中にある取れない小さな棘や、消化しきれない思いを抱えたまま
いつものように起きて、ご飯を作り、食べて、仕事をして、時々休んで…。

特に、娘を病気で亡くしてしまったお母さんのお話が印象に残っています。
その日以来、笑うことがなくなってしまったお母さん。
旦那さんや息子さんと一緒に料理をしたり食事をするけれど、笑顔がなくなってしまった。

その人が感じる痛みを『わかるよ』と、わたしは言えません。
想像でしかないけれど
そのお母さんの埋まらない悲しみを思うと胸から下が引っ張られるような感覚になります。

白黒ハッキリつけたがること
わたしは昔はそうでした。

0か100ですね、と笑われた事もあります。

わたし自身もですが
人は、モヤモヤしたままの気持ちを抱えて過ごすのは何となく消化不良のような感じがして
イヤなのかもしれません。

スッキリしたい。

その先には安心したいという気持ちがあるのではないでしょうか。

安心って、なんでしょうね?

ホッとする感じでしょうか。
お風呂に入った時や、疲れて帰ってきた時にソファに座って一息ついた時に思わず出る
『ふーーー』というような感覚。

安心って、そのままの自然体のどんな自分でも良いんだと感じるモノなんじゃないかなと思います。
どれだけ自分のことを受け入れられて
自分の声を聴いて、自分のことを知ろうとしているか。
どんな自分でも良い、という事は
白黒つかないハッキリしないままを見た時に
モヤモヤっとする感情を持った状態の自分だって良いという事だと思うのです。
まるで、そのモヤモヤした気持ちが悪いモノのように早く排除する。

そんな風にしなくたって良いんじゃないかな。

その気持ちと一緒に寝食共にして
いつものように仕事をしたり
時々、仲間たちと笑って
少し休憩して
家に帰ってご飯を食べて好きなことしたり
やることをやったり…
淡々とコツコツとした日常を過ごす。

そうこうしてるうちにそれは、何かにカチッとハマったように『そうか』となるかもしれない。
きっと、ハマるところにハマると思うのです。

自分の心の中を急かす事はしなくて良いと思います。
そんな風に感じてるんだなぁ、自分は。
というように少し離れたところで自分を俯瞰するような、自分はこんな気持ちなのかと知って流していくこと。

ハッキリさせたい、という奥には
早くしてほしいという気持ちもあると思います。
それは自分の時間が奪われているように感じているからじゃないでしょうか。

会社や仕事など自分以外にも多くの人々が関わるところだったら、どっちにするのか?と結論を急ぐべき時もあると思います。

すぐに分からなくたっていい
そういう自分でもいいよ
大丈夫だよ。

そう言って貰いたいのかもしれません。
そして、分かった時に自分の理想とする形ではなくてもそれでも良いよ。
そんな風に自分に声をかけて貰いたかったのかもしれません。
コントロール出来る部分とできない部分があります。
その上で自分はどうなのか?
どこまでも矢印は自分自身であり、そしてその時決めた事はその時の最善だったのだと思います。


今日は少し、やんわりとぼんやりとしたような文章です。
晴れてる日もあれば
どんよりした雨が降りそうで降らないような天気もあるし

そんな風にハッキリしないような時があっても
それでもいいと思うんです。


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