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私的排外主義と物語

感化されたことを自分のことに全て置き換えてしまうことは、今の私の悪い癖なのかもしれない。

群れたい、受け入れられたい、自分を説明できる物語が欲しい、が先にある。人は自由意志を信じたいから、自分の意思でこの思想を選んでいるということに固執するので、その奥にある乾いた欲求があったとしても認めることが難しい。もしかして”好き”で集まる集団でもよかったのかもしれない。

これは、為末大さんのnoteから引用したもの。

noteのタイトルは『排外主義と物語』。

群れたい、受け入れられたい、という言葉と排他主義。一見、対極に見える言葉たち。

群れたい、受け入れられたい、自分を説明できる物語。これは私にとって「摂食障害」なのかもしれない。

私は、摂食障害というものと付き合い続けており、気づけば もう10年近くにはなる。

少しでも自分を好きになるために、コンプレックスだらけの自分の容姿を変えたくてダイエットを始めた。綺麗になって、誰からも受け入れられたい一心だった。そして、いつしか過度に痩せに固執し始めた。

その過度に求め始めた「痩せ」は、まさに自分の中で宗教となっていった。この体重を上回れば、この体型を維持していなければ、自分ではなくなるのではないかという恐怖が常にある。

前の太っている自分、これ以上醜い自分になりたくない。私が排外的に思うものも、また、私なのだ。忌み嫌うものも自分の中にあり、理想とするものも自分が生み出すしかなかった。

結局、どんなに痩せても食を拒んでも自分がなりたい自分にはなれなかった。それどころか、後遺症として残ったものが大きく多すぎた。

分かったことは、どんなに過去の自分を否定しても現在で打ち消すことはできないということ。上塗りすることはできても、過去の根本を理解していなければ、解決はしないということ。為末さんの仰る、“その奥にある乾いた欲求”とは何かを理解していなければならなかった。

私であれば、それは、容姿に固執することではなかったのかもしれない。文章を書くことが好きだった、書道が好きだった、食べることが好きだった、出かけることが好きだった。そんな、単純な「好き」を追求して、自分の特性を活かすことがもっと大切だったのかもしれない。

嫌なところに固執して打ち消すために働くのではなくて、好きを追求して強くしていく方が、魅力的な人間になれるはずだ。

これは昨今の世界情勢にも繋がるのではないか、と為末さんの知見から導かれた。

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