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排外主義と物語

人間はただ生きていることにはなかなか耐えられず、寄って立つものを必要とする。自分が自分である所以、自分を説明できるもの、自分を物語るもの。しかし、自らをうまく物語れない時に、人種や国籍に拠り所を求め、それが先鋭化すると人種差別主義や排外主義に行き着くように思う。

変えられるものと変えられないものがある。変えられるものは努力で獲得可能で、変えられないものは努力で獲得できない。排外主義が国籍や人種に拠り所を求めるのはそれが努力で獲得しがたく一度持って生まれれば生涯奪われないから、そのカテゴリーにいるだけで自分を癒すことができる。

しかしながら、社会はまだ課題は多いけれども、人種や国籍、性別、その他の持って生まれた特徴よりも、その人の能力を純粋に評価する実力社会に向かっている。寄って立つものが実力に変わってしまった。以前は何人であればいいと言われたものが、今はただ優秀であればいいと言われる。

過激な主張を繰り返し排外主義に走る人間もよく観察してみると、お母さんこっちを向いて、とだけ言っているようにも聞こえる。何者でもなくても、うまく物語れるものがなくても、このままの自分を抱きしめて欲しいと言っているようにも聞こえる。しかし、そのような母親は本当にはいないのかもしれない。

実力社会においては、ただ優秀であればいい。一方排外主義のコミュニティは、ただ何かを嫌いでさえいれば受け入れてもらえる。何が好きで何が嫌いかなんていうのは実は後付けで、本当は自分の姿勢だけ示していれば受け入れてもらえる居場所を求めているのではないか。

群れたい、受け入れられたい、自分を説明できる物語が欲しい、が先にある。人は自由意志を信じたいから、自分の意思でこの思想を選んでいるということに固執するので、その奥にある乾いた欲求があったとしても認めることが難しい。もしかして”好き”で集まる集団でもよかったのかもしれない。

人はいつも何かの一部になりたがっている。

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