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珍妙動植物奇譚 ストイックマーマン

太平洋を漂う小さな微生物を集め、それを解析するのが簡単に言うと海洋学准教授である自分の仕事であった。
だからこそ、月に二、三回は海に出る。
基本的にはある程度の期間ブイを外洋に漂わせる。ブイの底部にはきめ細やかな網がついており、漂う砂やらを絡め取る構造になっている。
ある日海に出た時、奇妙な存在と出会った。
「准教授、あれなんですかね?」
連れてきた学生の一人が声かけた。彼女の指さした方向を窺う。
夏の陽気な海模様。昼下がりの穏やかな波しか見えない。
「特に何も見てないよ」
「おかしいな」
彼女は眼鏡の位置を戻す。
「いや、やっぱりなんか変ですよ。あれ、ほら。あれですよ!」
再びその方へ視線を移す。するとイルカが一匹泳いでいるようだった。時折ジャンプをしている姿を確認できた。
——待てよ。
基本的にイルカは群生し海を回遊する生物だ。単独でいることはかなり珍しい。
次第にその影は自分たちが乗り込む船へと近づいてくる。
「手がある……」
助手は小さくそう呟いた。
「そんなばかな」
半信半疑ではあったが、首にぶら下げた双眼鏡を覗く。
すると彼女の言う通りであった。
明らかに腕が生えていた。それは人間のもので間違いはなかった。しかし、その足にはヒレが付いている。
上半身は半裸であるが、人魚のような体格であった。
そして、どうやらその存在は乳房がないことからも男であると思った。
明らかに常人離れしたスピードだ。
船は途中で旋回したため、明確に捉えることはできなかった。
しかし、あれは紛れもなく人魚であった。

「なんだったんでしょうか」
助手は帰りの車でそう言った。
「——わからない」
彼女は荒々しい運転で、大学へと急ぐ。
「あそこの海域までは東京から出港して1時間の外洋ですよ。沿岸からは30キロ以上は離れてます」
「30って、そこそこあるんじゃないか」
「ありますよ。人間が練習すれば泳げる距離なのかな。どうなんですかね」
気になって調べてみた。
アメリカの女性はどうやら200キロ近くの遠泳に成功したらしい。しかし時間は50時間強かかったと言う。
——人間の所業なのか。
それが、気になるところだった。

結局少しの間学校内でも、マーマンについての噂で盛りあがった。
マーマン。人魚は女性だが、マーマンは男を文字通り指す言葉だ。
彼の正体はヒレが偶然手に見えただけのイルカだ。デマなのではと、そういった意見が学生の中でも出たらしく、結局は見間違えという結果で落ち着いていった。

だが。確かにあれは人間に近い何かだった。決してイルカなどそういったありふれたモノではなかった。
あれは明らかに見たことがない何かであったのだ。
研究室で夢想しつつ、記憶を辿っていた時、偶然つけていたテレビが奇妙なことを言い始めた。
「つまり、あの映像は紛れもない事実であると?」
コメンテーターの一人が眉をこれでもかと下げ、専門家に尋ねていた。
「そうですね。何しろ加工した形跡がないですからね。偶然、ヘリが撮影した航空映像だからこそ、動画の粒度は荒い。しかしながら、このええと『人魚』がジャンプした時に伝わる小さな波紋は自然現象そのものです。映像がフェイクということは無いと思います」
それに対して、反論がある。
「いやぁ。そんな人魚なんているはずはないでしょうが。ここまでの古今東西の歴史で、そういった伝承があったことは事実ですよ。事実ですが、実在はしていなかった。たしかに人魚のミイラなんてものはタイに売ってはいますが、あれは人為的な創作物ですし……」
正直、彼らの会話はどうでもよかった。
繰り返し流れるその映像に釘付けになっていた。

あの時見た謎の存在だ。
縮尺から推測するに体長は180センチ程度。成人男性の骨格と類似している。だが、あり得ないのは尾びれだけだ。
——チャンスなのか。
准教授になってから、特段な成績を残せてはいなかった。あくる日もあくる日も、海の小さな微生物だけと格闘する毎日。当然のように書いた論文が掲載されることもない。
であれば、今回の人魚、マーマンは自分に対してのチャンスなのではないか。
たしかに自分のこの目で彼を見た。人魚が存在することを証明できれば、教授への道も近いのではないか。
「よし」
そう一つ決心すると冷たくなったコーヒーを胃の中へ流し込んだ。

「准教授、本気ですか?」
人魚探しに際して、この前同行してくれた生徒に声をかけた。
「ただの人間だと思いますが」
なんとか、力説を繰り返し彼女は渋々了承してくれたのであった。

東京湾は少し荒れていた。風が強いから仕方がないかもしれない。
「船長。前と同じ航路でお願いします」
沖に出ること数十分。前にも訪れたブイが浮かぶ海域にたどり着いた。
双眼鏡であたりを覗く。先週と同時刻。ここで待っていれば現れるはずだ。
そうして、あたりをひたすら見回しながら揺れる船に籠ること一時間。彼は突如現れた。
「お、おい。見てくれ」
「まさか、本当に」
彼はバタフライのように、ときどき水面を飛び出す。
そのスピードはやはり人間離れしている。
「船を近づけるんだ。早く!」
船長に指示をする。船は急旋回し、彼の方へと近づいていく。
船は全速力で、彼を追いかける。
しかしまだ追いつかない。
「な、なんてこった。もっと早くしてくれ。逃げられる」
船は一定の距離を保ちつつ並走した。数十分ほどたった時さすがに距離が近づいてきた。
「お、おい!あんた」
男は長髪であることが確認できた。もう彼の姿は視認できている。
「おい! きこえてるのか!おい!」
男は振り返る。どうやら、やっと自分たちの存在に気がついたようであった。
男は急停止した。それと同時に船も止まる。
——言葉が通じたのか。
男はそのままプカプカと浮かんでいる。
「あの、あなたは僕の言葉が通じているんですか?」
男は髪をかきあげる。年は自分と変わらない。30歳を過ぎたころだろうか。
しかし、その肉体は自分のものとは比べ物にならないほど、完成された美しいものであった。
ダビデ像を彷彿とするような、完璧な筋肉が搭載されている。
「あなたは、その人魚なのですか?」
彼はじっと自分を見つめる。
「あの聞こえてますか?」
「は、はは。ははははは」
男は笑い始めた。
「何がおかしいんです?」
「い、いやいや。すみませんが、船の上に上がって良いですか?」
「上がる? 君は人魚なんだろう。そんな足じゃ、あれ?」
彼は、いとも容易く甲板に上がってきた。それは至極当然だった。男には普通の人間と同じ両足がついていたからだ。
「あれ? あれれ」
動揺している自分に対して彼は再び笑っていた。
「何か勘違いされてませんか?」
「あ、ええと」
言葉に詰まる自分に対して、彼は答えとなるものを渡してきた。
それは伸ばせば腹にまで達するであろうダイバースーツのようであった。下部にはヒレが付いていた。
「私の名前は霧峰修吾と言います。普通の人間ですよ。僕は」
「馬鹿な。そんなことがあるはずないでしょう。ここは沖から50キロ離れているんですよ。人間ができるはずがない。あなたは人魚なんでしょう」
彼は手をヒラヒラと靡かせる。
「いやいや。普通に泳いできたんですよ」
「そんな馬鹿な」
どう言うカラクリなのだ。普通の人間だと? そんなわけがない。こんな人魚のような、おもちゃを付けてここまで泳げるわけがない。
「馬鹿といえば馬鹿なのかもしれませんね。ですが事実なのですよ」
「どういうこと、ですか」
「単純に努力しただけです。ただひたすらに、それこそ人魚みたいになりたくてですね」
「はぁ」
ただの変人ということなのだろうか。
「もう海に出て10年になります。ずっとただひたすらに、こいつを付けて泳いでいたんですよ。そうかあ。僕が人魚に。そうか」
彼は何やら涙を流しそうでもあった。
「10年間もそうして、ええと。そういう格好をして泳ぎ続けていたんですか?」
助手は尋ねる。
「そうです。毎日欠かさずに、ずっと泳いでいました。当然誰からも理解は得られませんでした。もう僕の周りには誰もいなくなってしまいました。でも、そうか今日だったのか」
「今日?」
尋ねると彼は実に爽やかな笑みを返してきた。
「はい。人魚、マーマンと言われる日が、今日だったのかと」
「ニュースにも取り上げられてましたよ。人魚が出たって」
「ははは。そうなんですか。テレビも何も見ていなかったので」
10年間、毎日。彼は他の何にも囚われずただひたすら、ヒレをつけて泳いでいた。ただそれだけであった。
人に馬鹿にされつつ、ただ揺るぎないエイトビートのように、淡々と努力していたのだ。
それに引き換え。
「いやあ。そうだったんですか」
自分は、人魚を探し出すという一発逆転のホームランを当てようとしていた。
努力は伴わない結果を求め、瞳がくすんだ。
「僕も乗せてもらってもよいですか?」
男は尋ねる。
「あ。ええ。もちろんです」
三人は船に揺られる。

半年経ち、何とか論文を書き上げた。『微生物からわかる海の動向』という名の論文だ。内容に正直自信はなかった。
「准教授、ここがわからないんですが」
助手として同行してくれた彼女は尋ねる。
「あ、ごめん。今日この後外出しないと」
「外出ですか。珍しい」
「うん。ちょっと、霧峰さんと飲みに行く約束してて」
「ああ。あの人魚の」
「うん」
「何仲良くなってるんですか」
あはは、と笑うしかなかった。


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