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異文化理解について

-「セザンヌ」と「東山魁夷」の絵を比較し、文化の相違に着目する-

 つい昨日、自身のHPを一旦やめにしましてnoteにお引越しをしてまいりました。
 思いついた時には、すでに誰かがやっているという話はよくある話で、猛スピードで競争している世界では日々トレーニングが欠かせないのだなと痛感いたしました。
 ダビデ象を彫り上げたミケランジェロという人がおりましたが、彼は彫刻用の石を掘り起こすのも現地へ行って作業しなくては気が済まない性格の持ち主だったそうです。機会損失などという概念が存在しなかった時代の話です。

 大学の机上で学んだ文化人類学や芸術比較論だけの簡単な装備で、日本から飛び出してニューヨークのチェルシーやパリのルーブルに絵を売りに出かけた時に、言わずもがな吹き飛ばされる経験をして、今一度大学で学んだ知識の打ち直しをしたいというのが主題でございます。
 様々な媒体で文章を書くときに、いつも書き出したいなと思っていたことから残しておこうと試みます。どうぞお付き合いくださいませ。

-「セザンヌ」と「東山魁夷」の絵を比較し、文化の相違に着目する-

文化はその風土によって趣をかえる。それは風土が、

「人間と自然とが歴史的にかかわりあってきた環境であって、人間の社会・文化を規定するもの」※1

だからである。芸術はそのことを明らかに積極的に訴えはしないものの、明白に示している。それは人間が、自分自身を見出していく体験の場を風土としながら芸術を通して自己表現していくものにほかならないからである。

 例えば、セザンヌは個人的視点から物事をとらえ科学的手法を用いて現実を切り出す方法をとっている。言い換えると、主観が客観の本質をとらえそれを表現していく。それは絶対である神が創造したものを通して、神を理解しようとした人の考えが根源にあり、ペストの大流行で現実世界に生き残った人々が広めた科学もまたその視点から出発してしている。西洋人の観点はいつも主観と客体は対立する。

一方で、東山魁夷は油絵や屏風絵などを見てもその絵から自然へと帰属する感覚が感じられる。内容のそれ自体を体感できるような絵である。日本では主観と対立する客観には自分を無にして対立を回避する。これは日本の文化の中に現れている。

異文化理解の入り口 

 今やインターネットを通じて、世界中の文化に触れることが出来るようになった時代である。見る人によっては、素敵なものあるいは理解しがたいものがあるだろう。そうした表現の内容に出会ったとき、私は、人間は脳の構造は同じであると思い出すようにしている。何だかよく分からないが苦手な作品でも、文化的背景を知ることで、私が好きな表現が同じテーマで別の文化から表現されているということに気が付けるかもしれないと考えてるようにしている。知覚と表現されるもの/表現するものを理解することで情報を共有し、今見ている世界を改めて別の視点から理解することが出来ると信じている。

※1 参考文献:和辻哲郎【風土・・・人類学的考察】岩波書店


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