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わたしと、衣服

昔から服はすき。でも、いわゆるファッションや高級ブランドには、あまり興味がない。

そうはいっても、やはりみんなが毎日身に着けるもの。大切な暮らしの道具に思いを馳せずにいられません。


衣服を選ぶ上で、現時点でわたしが大切にしていることは以下の通りです。

・自然素材(化繊は基本レインウェアか、特別な場合のみ)

・新規購入は充分に検討してから(古着優先で探すことも)

・出来るだけ場面を問わずいつでも、長く着られることを念頭に


細かいことは色々あれど、ベースの部分はこんな感じです。


思えば、覚えている限りで、わたしが衣服を意識しはじめたのは小2くらいから。当時キュロットスカートにハマっていたのを、ぼんやりと覚えています。あの、スカートでもパンツでもない、ボリュームがあってしかも動きやすい感じがすきだった。


一時期はカラフルな服も好んで着ていたけれど、なんせ両親はめっちゃ地味な色ばかり着る人だったので、わたし(とイモートもときどき)が目立つ色や柄の服を欲しがると、特に母が「え~ホントに着るの?」と聞いてきた。

それがちょっと、いやだいぶ気になっていたのでしょう。


小5くらいから急に「やっぱり地味色がいいな」と思い直し、茶色やベージュ・カーキなどの服を選ぶように。中学生の頃もそんな感じだったと思います。

高校生になるまでは基本的に通販(大体セ〇ール)か、地元の商店街の安い服屋さんでしか買ってもらえなかったから、というのもあったかも。

手の届く価格帯と選択肢がずいぶん限られていた中で、どうしても好きな服を見つけられず、結果的にドシンプルな服ばかり選んでいたのも、ある。


でも高校生になったらなぜか自由度が増したので、服もほしいとき(大体シーズンに1度くらい)にお小遣いをもらい、基本ひとりで買いに行っていました。

この頃はすでに、古着だいすき人間。あ、でもアメカジでポップな雰囲気よりは、ヨーロッパのヴィンテージドレスのような雰囲気が好きだったので、色味は相変わらず控えめ。


大学に入ってから、ようやく自分のお金で服を買うようになったので、そこからやっと「1着にお金をかける」ということをすこ~しずつ始めました。ホント少しずつね。


・・個人のファッション経歴、ざっくりいうとこんな感じ。やっぱり幼い頃からの環境や思考の影響はあるようで、今でも基本的にベーシックな服ばかり。小さい頃からタイトな服は好きではないため、余裕のあるサイズ感を選ぶことが多いし、ワンピースは基本ひざ下。


衣服について考えるようになったきっかけは色々あれど、リトアニアのリネンに惹かれたところは大きくて、小規模で生産しているブランドさんからすこ〜しずつ買いはじめたり。

大学時代イモートのバイトしていたお店が民芸や草木染を大切にしていたので、たまに買わせてもらうようになったり。

食への思考から派生して、自然素材やオーガニック・エシカル(という言葉は知らなかったけど)を意識するようになったり。


そんなこんなで、次第に自分が素直に「着ていて気持ちがいいな」「この作り手さんを応援したいな」と思える衣服を選ぶようになったのでした。


「暮らしの道具」としての衣服

昔から「ブランド」「ファッション(流行性)」に興味はなかったわたしですが、特に大学生の後半ごろから今にかけて、変わらないことがいくつかあります。

細かいことをあげれば色々あるのですが、根幹は「いかに日常を快適に過ごせる服を選ぶか?どんな場面でも着られるか?」です。


わたしは着心地をめっちゃ重視する人ですが、服のしめつけや化繊の手ざわりが苦手なのは、結局のところ「毎日着るものだから心地いいものを選びたい」というところに終始しているからです。


ここでひとつ、思い出話。

大学生の頃、町でイタリア人のスナップ隊に声をかけられたことがあります。

そのとき着ていた服は、特に目立ったものではなかったと思うのですが、何枚か写真を撮った後に彼が質問をしてきました。


「あなたにとって、服はどんな存在ですか?」


・・・場面は変わって、今度はゼミでの話。

哲学科とはいえ芸術系分野に特化したゼミに所属していたので、読み込む文献やディスカッションの内容は、絵画や写真・舞台芸術から、ファッションや音楽まで多岐にわたります。

あるとき、後輩の卒業論文構成発表かなにかで「ファッションについて」という話題に。


メンバーがそれぞれ「自分にとってのファッションはどんな存在か?」の意見を述べていく中で、教授が「nochuさんはどうですか?」と聞いてきた。


・・どちらの質問にも、わたしはこう答えています。

「わたしにとって、服は”日常の生活道具”だと思っています」と。


この答えに、イタリア人スナップ隊もゼミに同席していた生徒も、揃ってポカーンとしていたこともまた、よく覚えている。

けれど、服で個性を表現できることをよく分かっていたつもりとはいえ、それでもやっぱり「衣服が日々の暮らしを大きく左右する」ということもまた大事に思っていたのでした。

衣服選びの軸として、それは今も変わりません。


”繊維”から”肌に身に着ける”まで

食べものでいうところの「Farm to Table」のように、衣服もまた、土から生まれて土に還るもの。

10年ほど前から急激にファストファッションが流行り出して以降は、特に「服は安く買ってなんぼ」みたいな風潮がありますが、一部を除けば、ほとんどの衣服は「誰かの手」によってつくられています


当たり前なことなのに、衣服も食べ物も「買う」が当たり前になってしまった世の中では、なかなかこの事実を意識できない人が多い、ように思う。

つまり、誰が・どこで・どんな風に衣服を作っているのか?が全く見えない世界に生きることが当たり前、の世界になってしまっている。


特に、わたしが今までさまざまな人に出会ったり、あるいは遠くから様子を眺めてきた中で、食事や運動に気を遣う人はほんとうに増えていると思うけど、オーガニック農家さんですら衣服は気にしない、という人ばかりな気がします。

口に入るものには気を遣えるのに、肌に身に着けるものは気を遣わない。いや、事情があって気を遣えない、のかもしれないけれど。


地球に暮らす以上、衣服に自然繊維を選んでほしいのは当然ですが、それが(動物か植物かに関わらず)繊維となってわたしたちの衣服になるまで、一体どれほどの土地や水を使い、労力をかけているのか。

もしかしたら、農薬や殺虫剤を使っているかもしれない。誰が作っているのか分からない。動物の毛や革だったら、彼らが苦しい思いをしているかもしれない。


見えないからこそ想像することで、疑問に思ったことは調べるなりして、衣服にも当てはめて考えるようになってから、ほんとうに少しずつとはいえ、着るものをスイッチするようになりました。今でもまだ進行中、なところもある。

でも、ちょっとずつでいいと思うのです。すでに手元にあるものは使うべきだ、とも。

わたしだって、選んでは「ああ、もっといい選択肢があったはず」と、失敗を繰り返しながら今に至っています。


それでも、選んだものには責任を持ちたいので長く大切に着るようになり、特にこの数年はもう「着ないから手放す」ということすらほとんどなくなりました。

自分が「いいな」と思った服ならば、いつまでも大切に着られるものです。


・・・自分ごとの話をする体で文章を書いているつもりでも、結局こういうことに触れるたび、もっと多くの人に衣服を考えてもらえるといいなあ、と切実な願いが溢れてしまうもののようだな。


「服用」という言葉に見る、衣服の役割

今では「薬を服用する」といった使い方をしますが、もともとは草木を煮出した液に布を浸して患部に貼ったり、乾かして纏ったりすることを「服用」といいました。

つまり、染料が染料たる意味のひとつは「自然のエネルギーを、肌を通して身体に取り入れること」だったといえます。


もちろん、古くから色によって階級分けがされる世の中ではありましたが、現代のようなカラフルな服を自由に選べるなんてこと、なかったでしょう。

特に、庶民の中で限られた色しか纏えなかった時代も考えれば、単純に色のみならず、豊富な絞りや柄・日本なら特に絣の技術とか、もうほんとうにすごいとしか言えません(語彙力)。



服用に話を戻すと、わたしが今、衣服の色に関して優先したいことって、もはや「色」そのものじゃないのかもな~と。

マクロビでいうところの「身土不二」のように、世界じゅうを飛び回ってつくられている衣服もまた見直されるべきで、繊維も染料も、自分から近い範囲で手に入るものをいただくのがいいよねって思っています。


もっといえば、植物だけじゃなくてその地の土・空気・水など、あらゆる自然のパワーをいただき、時間をかけて(なんなら発酵させたりして)ゆっくり時間をかけることで得られる色、というよりむしろエネルギーを身に纏う方法を、模索して提案したいなあ、とすら考えるこの数年。


そういう意味で、そのうち食の自給はもちろん、衣服の自給もしたいです。これは大きな目標のひとつ。


この数年は、特に自分が染めをしたり、イチから衣服を作る機会が増えたから気づいたことでもありますが、繊維だけでなく色を染めるのも、染料の素材や水・人の労力まで、さまざまなエネルギー(これは消費という意味で)を使うもの。

だから、自分が着るものは、せめて染めの段階から自分でやれたらいいな、なんて思うのです。


植物や土・水・光のエネルギーをいただくことが、食において大切なのと同じように、衣服にとっても同じことが言えるはずだから。

肌に触れるものだからこそ、繊維だけではなく色にまで気を遣いたいなって話。まだまだ道半ばなので、これから少しずつ変えていきたいところでもあります。


「長く着る」ことは、自分と地球への思いやり

1着を長く愛するために、ファストファッションよりは高い金額で(でも手の届く範囲で)衣服を購入するようになってから、身につける時間が圧倒的に長くなりました。

長く着すぎて、ちょっとシミがついたり、穴があいても「なんとかして直せないだろうか」と思うように。


昔から、服のボタンが取れたり、縫い目がほつれるくらいのトラブルには「自分で直しなさい」と母に言われてきたこともあって、もともと衣服の物持ちは長い方だと自負しています。

しかし靴下やワンピース、なんなら最近はパンツまで、穴が開いてもハギレで継いだり、ダーニングを施したりして、出来るだけ長くきられる工夫をしています。


最初はただ「もったいないから」という理由だったと思うけど、純粋に地球のエネルギーを借りてできたものを長く使うことで、資源のセーブになっているんだな〜と気が付いた。

セーブ、という点でいえば、確かにお金の節約にもなっています。今では衣服を買うことなんて、1年で何着・・?5着も買うかなあ。あ、下着も含めての話。それくらい買いません。


安易かもしれませんが、やっぱり持つアイテムの数が少なくなれば、一つを大切に扱うものだし、最後までものの命を全うするために手を尽くせるものです。

それが地球への優しさ・思いやりになるのなら、なおさらいいよね。



衣服については、今回話した素材・暮らしの道具という考え方・色・ものの命を全うすること、の他にも、考えたいことはたくさんある。

でももっと、衣服と食・道具も含めて「暮らし全般」で考えたいこともあるので、また今度。


来週22日は、アースデー。春になり、草木の芽吹きが見られるこの季節、改めてわたしたちのホーム・地球と暮らしを繋げて考えてみるのはいかがでしょうか。

意外と「これならできる・変えられる」ってこと、あるはずです。


過去に、ダーニングの話からエシカルな買い物方法についての記事を書いています。

素材の話も(個人的にオススメです笑)。

こちらは、ゼロウェイストにつながる、暮らしの工夫の話。


もしわたしの言葉や想いに共感していただける方がいれば、サポートをして下さるとうれしいです。 ひとりでも多くの方へ「暮らし」の魅カを伝えるための執筆・創作活動に使わせていただきます。