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あの頃よりマシだからと、ツラさに蓋をした #我慢に代わる私の選択肢

いくつもの病院を転々としながら、私は私の病気が治るなんてちっとも思っていたかった。

私のことを、私が一番あきらめていた。


アトピーと診察されたのは物心つく前のこと。
掻きむしって肌がぼろぼろになるから爪はいつも短く、小さい頃は夏でも長袖だった。

数えきれないほどいろんな病院に行った。
どうしてこんなになるまで放っておいたのかと、母が責められるのを何度聞いたことだろう。

放っておいたわけじゃない。どの病院にかかったって、たいした効果は得られなかったんだ。
寛解したと思えば突然病院にかかる以前よりも悪化する。隣町の皮膚科がいいらしいと聞けば飛んで行き、しばらく様子を見るも結局は悪化して、短ければ数カ月、長くても1年ほどで病院を変えた。

当時はステロイドに対する間違った認識が広まっていて、皮膚科の先生でさえステロイドの使用を渋ることも多かった。

水を変えると体質が変わる。プロポリスを飲め。気功がどうだ、漢方がどうだ。わけのわからない民間療法も一通り試した。もちろん治るわけがなく、試した治療法と比例して、お金と心は擦り減っていく。

そんなことを繰り返すうちに、病院も民間療法も何もかも信じられなくなった。

ピークは中学から高校までの約6年。ベッドから起き上がることも難しく、長く学校に行けない期間もあった。
顔の大部分は皮膚が何枚か足りないような状態、といえば伝わるだろうか。風が吹くだけでも痛くて、笑うとできかけの瘡蓋が崩れ、涙は傷口から出る浸出液と混じって不快だった。朝はぐちゃぐちゃの瘡蓋がなんとかカタチになってくれる反面、まつ毛まで瘡蓋の一部になってしまって目が開かなかった。

18歳を過ぎると多少落ち着き、大学に行った同級生が就職する年になんとか仕事に就くことができたけれど、痒みは常につきまとった。

仕事中に痒みが引くわけでもなく、集中が途切れて一つの作業に人よりずっと時間がかかる。要領の悪さも手伝って毎日残業になり、夜は夜で痒くて眠れない。

アトピーはあっという間に悪化した。

それでも、悪夢のような6年間に比べればなんてことはない。だって、風が心地いいと感じるんだ。朝、目が開かないことだってない。仕事ができている。社会とつながっている。だから大丈夫。大丈夫。

騙し騙し仕事を続けて、さすがにもうだめだ、と思ったのは働きだして3年目だったろうか。

毎日眠れないし、痒みは全身に広がって、いよいよ顔にも症状が出てきていた。

ちょうど会社の人に有名な皮膚科を教えてもらったこともあって、久しぶりに病院に行ってみることにした。

紹介がないと診てもらえないというので、近所の皮膚科に駆け込んで、とにかく紹介状だけ書いてもらう。

初診の受付は平日のみ。有給をもらって、紹介状を抱え、電車とバスを乗り継ぎ、病院のドアをくぐった。

久しぶりに感じる病院の空気に少し身構える。
ここに来るのは初めてだけど、病院すべてに良い印象が少しもない。

なるべく新しくて効きそうな薬を処方してもらって、そしてはやく帰ろう。

皮膚科の受付に行くと、紹介状と引き換えに問診票を渡された。

ああめんどうくさい。はやくかえりたいのに。
思いながら、ソファーに座る。

・いつから : 
・症状 : 
・部位 : 
・これまでどのような治療を受けてきましたか?: 

当たり前の質問ばかりなのに、順々に書き進めるうち、涙があふれてきた。

あれもやった。これもやった。
全部書くには問診票の余白が少な過ぎる。
それでも、ちっとも治らなかった。

問診票の質問一つひとつが、辛かった過去の記憶を呼び起こす。

いけない。こんなところで泣きたくない。隣の小児科の待合所では子どもが走り回っているし、私はいま一人きりで、もう大人で、だからこんなところで泣くのはおかしい。喉にぐっと力を入れ、なんとかこらえて問診票を書き終えた。


もう本当に、はやく帰りたい。

書き終えてから、待つこと1時間以上。紹介状がないと診てもらえないほどの有名な先生だから仕方がないかもしれないが、こっちはずっと待ち通しだ。

病院の白さと反比例して、自分の赤く爛れた肌がいつもより醜く忌まわしいものに見えてくる。

苛立ちが疲労に変わる頃、ようやく番号を呼ばれた。

3つほど並んだ診察室の1室の引き戸を開ける。


その先生は、真剣な眼差しを問診票から私へと移し、着席を促しながら、静かに「大変でしたね。」と言った。

「いままでいろいろやってこられて、大変でしたね。でも大丈夫。治ります。」

瞬間、私はぼろぼろと泣いていた。
大変だった。大変だったんだ。

難病でも障害でもないアトピーは、他人からすればただちょっと痒いだけでしかない。病気だと認識されていないことだってある。
でも、「ちょっと痒いだけ」のために、私の人生は大きく揺らいだ。できなかったことがたくさんある。「チクチクしないか」を気にせずに服を着たかったし、海で泳いでみたかった。メイクもしてみたかった。高校だって大学だって、普通に行きたかった。

ほとんど生まれついての病気だから、大変だとか大変じゃないとかを考えることもなかった。歩けないわけじゃない。命の危険もない。自分より見るからに大変な人がたくさんいるから、自分のことを大変だと思えなかった。

そして、治りますなんて、今まで一度だって言われたことがなかった。誰もそんなことは言ってくれなかった。私でさえ、治るだなんて思っていなかった。それなのに。

先生は静かに、しかし力強く、治ります、治しましょうと言ってくれた。


「新しくて効きそうな薬」を処方してもらうつもりでいた私に、先生は2週間の入院治療を勧めた。「この段階まで症状が進行しているなら、自宅での治療は難しいですよ」と。
その言葉は私には驚きだった。だって、ベッドから起きられなかったあの頃よりずっとマシなのに。朝起きられるし、パチっとまぶたが開くし、風が心地いいと感じるのに。

私は「あの頃と比べれば大丈夫、まだ大丈夫」と我慢を重ね、ついに入院が必要になるほど自分の身体の痛みに無自覚だった。


結果私は入院を決め、実際2週間の治療で「人生で一番調子のいい肌」を手に入れた。入院4日目に、痒みで起きることなくぐっすり眠れた感動はいまでもはっきりと覚えている。
いまもストレスがかかると悪化はするけれど、薬を使いながら、自分でコントロールができるレベルで安定している。




人は強い。だからこそ、とても脆い。
他人はもちろん、過去の自分のつらさと比較して、現在の自分を蔑ろにしてしまう危険を孕んでいる。

でも、あの人と比べたら。
でも、あの頃と比べたら。
まだ大丈夫。

ちょっとつかれたな、ちょっとしんどいなと思ったとき、「でも」という言葉が浮かんだら、その言葉は一度置いて、手前にある感覚を大事にしたい。

きちんと休む。病院に行く。第三者を頼る。

取れる手段はきっといくらでもある。でも、こうした選択肢を考える第一歩はほかの誰でもない、過去の自分でもない、現在現時点の、自分の感覚だけなのだから。

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