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主に哲学の本を読んだ感想などを書いていきます。

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最近の記事

ベルクソン的時間を走る

 時間は空いたが、走ることのログを残していこう。書いてはいないが、毎日走っている。いつも長距離というわけではないが、1km以上は走っている。習慣だ。走れないのは基本腹痛が原因。そうでなければ、走るのは気持ちがいい。  走るのは毎日1時間と決めている。先も言った通り、腹痛というイレギュラーを除いては。決まった時間何かをこなすことのほうが習慣化という意味ではいいのではと考えたからだ。走っていると爽快ではあるが、色々考える。もうベットでだらりとしたいなと思うこともある。そうなると、

    •  腹痛日記、ウィトゲンシュタインとレヴィナス

       本日は三日分のランニングログの走行距離を一挙公開。  6日目7.1km。7日目1.9km。8日目7.7km。  かなり走行距離が少ない。やはり腹痛。何回書くんだ。これは自分が心配になってきた。もしかしたらなんらかの内臓の疾患があるのではないかと疑ってしまう。ここ最近、ずっと右脇腹がなんだか重い。走り出してからだ。しかしこれは因果関係がわからない。もともと痛かったが、体を動かしてなかったため鈍感で気づかず、走り出すことで意識できるようになった。無理に走り出してしまったため、体

      •  お散歩日記とランニングログ、世界の適切な保存

           今日は豪華二本立て、二日分のランニング記録だ。読書記録もあるよ。  さて、まずは昨日のランニングログ、もといお散歩日記からいこう。  そう、昨日は走れなかった。原因は腹痛だ。走ると騒ぎ出すあの厄介者。昨日は目覚めた時からあの腹痛の種が静かに息を潜めているのを感じていた。これは走り出すと絶対に痛くなる、その確信があった。試しにお腹を揉んでみたり、体を左右に倒すことで横腹を伸ばしたりしてみたが、違和感は消えることはなかった。そのまま夕方の仕事終わりに走りだすことになった。

        • ランニングログ三日目、精神現象学

           ランニングログ三日目。思いもよらない方向にnoteを書くようになった。今日もひとまず走ってきた。一応、1時間ちょっと。  一応と書いたのには訳がある。少し問題があった。腹痛だ。誰しもが経験するであろう走っているときに脇腹に疼くあの鈍い痛みだ。昨日も腹痛はあった。それは騙し騙しなんとか走り切った。しかし今日は走り始める前から雲行きが怪しかった。腹痛の種のようなものが、右脇腹に静かに潜んでいた。まだ痛みは起こってないが、この種が成長し、あの痛みへとつながるだろうという予感がすで

        ベルクソン的時間を走る

        •  腹痛日記、ウィトゲンシュタインとレヴィナス

        •  お散歩日記とランニングログ、世界の適切な保存

        • ランニングログ三日目、精神現象学

          嘘、走る、レヴィナスに取り憑かれて

           昨日に引き続いて、今日も走ってみた。気づいたのだが、昨日一つ嘘をついてしまった。1時間で12km走ったといったが、そんなに早いペースで走れてなかった。1時間で8kmほどだった。なぜにそのようなことを書いたのかというと、僕のスマホにインストールされたアプリがそのように知らせてくれたからだった。最初はその情報を鵜呑みにしていたのだが、昨日の走った手応えとして、そんなに早いペースで走った覚えはなかった。1時間走り切れるよう、トボトボと走ったのだった。ペンギンのような歩幅だ。ちなみ

          嘘、走る、レヴィナスに取り憑かれて

          孤独への耐久力

           村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」を読み返した。ここにはかの有名な、村上春樹が小説を書くことを志した、シンクロニシティ的出来事が書かれている。他でも書かれていたような気もするが。  それはさておき、最近自分の中で孤独に対する耐久力が落ちている気がする。仕事以外ではほぼ他人と関わらないが、それは昔と変わらない。その部分では変化がないのだが、メディアとの接触という点では、耐久力がかなり落ちてしたった。要は、ぼーっとできないわけだ。ここでのメディアは、本・音楽

          孤独への耐久力

          自由意志と私の消失——「ハーモニー」の読解をもとにして

          <caution>  本稿では、伊藤計畫の「ハーモニー」を題材として、苦しみについて考えていく。「ハーモニー」の物語的構造を露呈させることで、苦しみと天秤にかけられるものついて考察していく。ということで、ありていに言えばネタバレを含む。「ハーモニー」はたとえ構造が露呈したとしても、その小説的魅力が大きく減じることはないと思う。それほど小説としての力があると私は信じている。しかし、小説一般のもつ、謎による読書のドライブ感が低減することは否めない。というわけで、これからはネタバレ

          自由意志と私の消失——「ハーモニー」の読解をもとにして

          日の丸を見つめて

           ふと日本国旗が目に入った。すでに見慣れたそのデザインをまじまじと見つめてみた。そして、その国旗なるものが象徴しているものに自分が属していることに気づかされた。急に、居心地の悪さ、胸のむず痒さ、そして怒りを感じた。その暴力性に。なんで私がこの日本というものの一部をなしているのか。  別に日本が嫌いというわけではない。さまざまな生活環境・テクノロジーなど、世界や時代を見回してみても大変恵まれている。「お前は日本の良さを享受しているのに、何を批判しているのだ」、このような意見はご

          日の丸を見つめて

          酒・タバコ・ギャンブル

           最近は家でビールを飲むようになった。晩酌なんてしたいと思ったことなかったけどな。飲兵衛の父の遺伝子はあるのかもしれない。父は最近酒で痛い目にあったので、二の轍は踏むまいと思う。量は350〜500mlまでと健康的に嗜む程度ではあるので、大丈夫だとは思うが。しかし未来はわからない。酒に溺れることもあるだろうな。しかしまぁ、そうなったらそれでいいのかもしれない。  酒・タバコ・ギャンブルとは、ほど遠い人生を送ってきた。どれもなんだか苦手だ。酒は最近定期的に飲むようになったのだが

          酒・タバコ・ギャンブル

          Re:「精神現象学」を読む、その9 Ⅱ. 知覚——物と錯覚

          精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録。 今回は「Ⅱ. 知覚——物と錯覚」。 以下本文開始。   前回では、対象にこそ真理があり、その対象がどのような特徴を持っているかを概観しました。今回は、対象を捉える知覚の方に視点を移していきます。   対象に真理があるということは、知覚はその対象をなるべく毀損することなく受け取ることが重要になってきます。知覚が何か手を加えてしまったら、その分対象の真理性が失われてしまうからです。  知覚はどのようにして対象

          Re:「精神現象学」を読む、その9 Ⅱ. 知覚——物と錯覚

          意図的な忘却

           今日は何かを書き散らしたい。あてもなく徒然に。  転職を機に引っ越してからもう少しで1年だ。人の常だが、早いものだなという感嘆が口をついて出る。引っ越してきた頃に書いた記事を読み返してみたが、環境の変化に心身ともにやられていたようだ。そのことをすっかり忘れていた。今ではしっかりと適応しているらしい。また腰が重くなってきた。この地にもそれほど長くはいないとは思うので、引っ越しを考えると気が重い。まぁ、不確定の未来を慮ることほど無益なことはないので、忘れよう。  最近はこの

          意図的な忘却

          Re:「精神現象学」を読む、その8 Ⅱ. 知覚——物と錯覚

          精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録です。 今回は「Ⅱ. 知覚——物と錯覚」です。 以下本文開始。  感覚的確信の段階では、「このもの」という個別的物こそを真理として捉えていましたが、その算段は誤っていました。というのも、指し示すものは必然的に一般的なものになり変わってしまうからです。というわけで、第二章では一般的ものこそを真理として考えていきます。登場するのが知覚と対象です。  知覚と対象は、日常な認識の段階だと思って差し支えないでしょう。もちろ

          Re:「精神現象学」を読む、その8 Ⅱ. 知覚——物と錯覚

          クワイン「経験主義のふたつのドグマ」読解 その感想

           先日スペースにてメカ磁気さんによる”クワイン「経験主義のふたつのドグマ」読解”の講義が行われた。今回はその講義とレジュメをもとにして、徒然と書いていく。 意味を排除する態度について  まずは論脈から外れた前提的なことから。  この点が常に膜を張るような感じで思考がぼやけてしまっているので、まず明確化していきたい。「意味」という言葉で何を表せるのか考えてみる。 ①ある単語によって想起されるイメージ像 ②辞書に書いてあるような言葉の定義  ①を私的意味、②を公的意味としてみ

          クワイン「経験主義のふたつのドグマ」読解 その感想

          Re:「精神現象学」を読む、その7 I. 感覚的確信

          精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録です。 今回は「I. 感覚的確信」です。 以下本文開始。 まずは「精神現象学」の試みを思い出してみましょう。素朴な意識が、外部の介入なく内在的な論理でさまざまに形態を変えていき、最終的に純粋な魂、つまりは概念と対象の完全なる一致を目指していくのでした。  そのようなゴールがあるということは、なんとなく頭の片隅にでも置いておきながら、まずは素朴な意識からスタートしていきましょう。ここに、精神現象学における弁証法的運

          Re:「精神現象学」を読む、その7 I. 感覚的確信

          詩コンプレックス

           僕は詩というものの良さを解さない人間だ。  それは一つの大きな劣等感として存在している。わからないものに対する態度は二つ、追い求めるか、取るに足らないと切り捨てるか。ぼくは詩をつまらないものだと遇らうことができない。ただ強烈に追い求めているというわけでもない。心の片隅で、ずっと詩のことが気になっている程度だ。  最近は谷川俊太郎がマイブームになっていた。なんだか良さがわかる気がしてきた。だが、うまく掴みきれない部分も多い。だから入門的な何かを読みたいと思った。  かつて入門

          詩コンプレックス

          ボカロとニコ動、ただ懐かしむだけ

           最近はボカロを聞かなくなったな。  自分の趣味趣向の変動を感じると、物悲しくなる。かつての輝いていたものたちが、もうあのころの輝きを発しなくなった。もちろん今でも聞くといいのだが、なにか大事なものが抜け落ちてしまったような。  学生の頃は通学中つねに聞いていた。  当時は、ipodなるものに音楽を詰め込んで持ち歩くのが普通だったが、もうこの感覚も伝わらなくなるのだな。  どのような曲を聴いていたのかふと気になり、古のボカロランキングを見てみる。  なんだか、開けてはい

          ボカロとニコ動、ただ懐かしむだけ