詩コンプレックス

 僕は詩というものの良さを解さない人間だ。
 それは一つの大きな劣等感として存在している。わからないものに対する態度は二つ、追い求めるか、取るに足らないと切り捨てるか。ぼくは詩をつまらないものだと遇らうことができない。ただ強烈に追い求めているというわけでもない。心の片隅で、ずっと詩のことが気になっている程度だ。
 最近は谷川俊太郎がマイブームになっていた。なんだか良さがわかる気がしてきた。だが、うまく掴みきれない部分も多い。だから入門的な何かを読みたいと思った。
 かつて入門書みたいなものを読んだことがあったような気がする。しかしそれがどんなタイトルの本だったのか、もう思い出せないほどだ。
 ということで新たに入門を試みるため、「詩のトリセツ」という本を読んでみる。この本にした理由は単純、kndleで気軽に買えて読みやすそうだったからだ。なんて低い志で買ったのだろうか。

 まずは「詩」とは何かというところからはじまる。
 「詩」とは、人生における神秘の本質をを言葉によって掴み取る試みなのだと言う。これはそうなのだろう。わからないながらも、そういうものなのだろうと確信しているから、詩に興味があるのだ。

 続いて詩の技巧的な部分に焦点が当てられる。
 人生における神秘が表現したいのだから、言葉はたんなる道具にすぎない、直裁に考えればそうなるだろう。しかし内容と形式はそう簡単には切り離せない。ある内容を伝えるためには、それを伝えるための形式がどうしても必要となるからだ。

 技巧の一つ目として、リズムが挙げられる。音象徴・オノマトペ・拍子などの要素について説明がなされているが、正直、この部分はすごく退屈だ。確かにそのような効果はあるかもしれないが、これは分析先行なのではないか。神秘を表現するには、あまりにも頭でっかちな技巧が立ちすぎているような気がする。まぁ、詩をひとつも作ったことのない人間の戯言だ。
 
 その後、イメージ・構造と章立てされているのだが、急に嫌気がさしてきた。なんと言う気分屋なのだろうか。自分が嫌になる。そのような退屈な積み重ねこそが大事なのだと言い聞かせようとしたが、もうだめだ。こうなると、何も頭に入ってこない。

 この本の最後は、実際の詩の解釈があるので、それを先に読んでしまおう。
 吉増剛造「燃える」について解釈されている。


 読み進めてみたが、ぼくはここで本を閉じることに決めた。もう読めない。この本が悪いと言うわけではなく、詩には解釈が必要なのか、よくわからなくなったからだ。
 「燃える」という詩はどんな詩か。まずは引用しよう。

黄金の太刀が太陽を直視する

ああ

恒星面を通過する梨の花!



風吹く

アジアの一地帯

魂は車輪となって、雲の上を走っている



ぼくの意志

それは盲ることだ

太陽とリンゴになることだ

似ることじゃない

乳房に、太陽に、リンゴに、紙に、ペンに、インクに、夢に! なることだ

すごい韻律になればいいのさ



今夜、きみ

スポーツカーに乗って

流星を正面から

顔に刺青できるか、きみは!

「燃える」吉増剛造

 直裁に意味をとるのは難しいだろう。この詩について、だいたい次のような解釈が加えられる。
 最初、詩人(作者)の創造的エネルギーがイメージの重ね合わせによって表現されている。
 続いて、詩においては「見る」ことより、何かに「なる」ことの方が大事なのだという。
 そして最後、詩の創造的なエネルギーに耐えられるのか?読者に問いを投げかけて、この詩は終わる。

 「燃える」は、たしかに散文的に読解しようと思っても意味は取れないだろう。そこでこのような補助線を引くことで、確かに意味はわかった。わかったが、それで何になるのだろうか。この詩の意味不明さを説明することの貧弱さに直面してしまい、なんだか悲しい気分になってきた。
 ぼくはどちらかと言えば、説明する方の人間だ。だから詩の入門のようなもので説明を求めていた。しかし、そのような説明に偏重した自分の存在がものすごくチンケなものに感じられてしまった。かといって、そのまま感じるということもうまくできない。この意味不明さがある種の豊穣さであるとはわかるが、ぼくはイメージの連鎖が苦手なのかもしれない。もうこんな頭でっかちになっている時点でお終いなのだろう。詩にとりさらわれるような状態でないと、いくら解釈したところで、なんの意味もない。

 今回の入門も頓挫してしまったようだ。詩に対する文字通りコンプレックス(複雑な)思いが強まってしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?