Re:「精神現象学」を読む、その7 I. 感覚的確信

精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録です。
今回は「I. 感覚的確信」です。
以下本文開始。


まずは「精神現象学」の試みを思い出してみましょう。素朴な意識が、外部の介入なく内在的な論理でさまざまに形態を変えていき、最終的に純粋な魂、つまりは概念と対象の完全なる一致を目指していくのでした。
 そのようなゴールがあるということは、なんとなく頭の片隅にでも置いておきながら、まずは素朴な意識からスタートしていきましょう。ここに、精神現象学における弁証法的運動の基本が示されています。
 もし、この章を読んでもチンプンカンプンだったというのであれば、一度この本を閉じることをお勧めします。人生は有限です。その状態で本を読み進めても、得るものはかなり少ないでしょう。もちろん、読書百遍意自ずから通ずの気持ちで読んでもいいのですが。これは私の「精神現象学」との付き合いから導かれた経験則です。

 素朴な意識にとって、まずは「直接的な知」があります。なにはともあれなにかがある、これがスタートラインです。直接的な知こそが最も確かであると感じるでしょう。これを「感覚的確信」といいます。
 この感覚的確信は、もっともゆたかな認識であると言えます。なぜなら、それしかないからです。わたしたちには、直接的な知しか与えられません。言い方を変えれば、五感を通してしか何かを知ることはできません。ですから、感覚的確信からは無限のものを取り出すことができます。それがすべてなのですから。これが感覚的確信が、もっともゆたかな認識である所以です。
 しかし同時に、感覚的確信はもっともまずしい認識とも言えるのです。なぜでしょうか。直接的な知は、「ある」ということしか言えないからです。わたしたちの意識はまだまだ原初的な段階です。なにも弁別分類する手段を持ち合わせていません。ただただ何かがある、これしか言えないのです。感動的なものに対して「エモい」としか言えないのと同様、その豊かさの表出に際しては、貧相は表現しか持ち合わせていない段階なのです。
 ここで「精神現象学」の最初のドミノが倒されます。ただ「ある」と言われる感覚的確信ですが、それでもすでにして「ある」ことを認識している時点で、完璧な純粋性にはとどまれません。「ある」とされる「このもの」と、それを認識する「この人」とに分裂しています。この分裂に端を発して、最初の弁証法運動が起こります。
 
 直感的に考えていきます。「この人」と「このもの」のうち、どちらが本質的でしょうか。言い方を変えれば、どちらに真理があると言えるでしょうか。そう問われれば、「このもの」と答えるのでないでしょうか。
 一般的に話をしてみます。まずは真理としての「このもの」、つまり対象があります。それを「この人」、つまり自我が五感という認識手段を通して、対象という真理を把握します。五感は完璧ではないので、さまざまな間違いを犯すでしょう。そのなかでも、なんとかして対象を損なわないように認識しようと試みます。自我と対象はそのような関係とみるのが普通でしょう。
 「精神現象学」では、「このもの」を「いま」と「ここ」にさらに分けて分析をしていきますが、ここでは「いま」に焦点を中心に話を進めていきます。
 直接的に与えられた「このもの」は「いま」感じられています。たとえば夜中になにかのインスピレーションが舞い降りてきて、それをノートに書き記したとしましょう。「いま、これを感じている!」と。それを書き付け安心してぐっすりと眠りにつき、昼間そのノートを読み返したとしました。そのときノートに書きつけられた「いま」はいつのことでしょうか。それは昨日の夜中のとこでしょう。となるとノートに書きつけられた「いま」は、もう「いま」ではありません。なぜなら「いま」はお昼だらかです。同時に夜中に掴んだこの感じも色褪せたような気がします。
 この話で重要なのが、「このもの」に含まれていた「いま」を「いま」として表現した途端、掴み取りたかった「いま」が手からこぼれ落ちてしまうということです。本当は、インスピレーションを掴み取ったあの夜のことを「いま」と表現したいのに、お昼にノートを読み返すと、「いま」はお昼を指してます。では「いま」はお昼に属するかというと、もちろんそうではありません。時間は流れていきます。「いま」は刻一刻と移り変わっていきます。
 つまり、「いま」という言葉では、「このもの」の個別性を捉えることはできず、「このもの」の一般性しか捉えられないのです。「いま」という言葉は、どの時刻にも等しく使えてしまうのです。
 「いま」の例でわかるのは、直接的な知はひとつも直接的ではなく、否定と媒介を本質とする知だということです。もう少しつけ加えていきましょう。「いま」とは結局、夜でも昼でもないのでした。どのよう時刻を代入したところで、それで「いま」を完璧には表現できません。このように「いま」は、あれでもないしこれでもない、つまりは否定的なのです。そして、わたしたちが「このいま」という直接性を表現したくとも、どうしてもそのような「いま」を経由してしか表現できないのです。これが媒介性です。

 ここで「この人」と「このもの」の間で逆転が起こります。先ほどは、「このもの」の方に真理があると考えていました。しかし直前の考察により、「このもの」には直接的なものは含まれておらず、否定的で媒介的でしかないのでした。言い換えれば、一般的なものです。
 となると、直接性が与えられるのは、「この人」によってといえるでしょう。「この人」が「いま」「ここで」何かを捉えるからこそ、感覚的革新が得られるのです。
 しかし、ここまで読み進められた方なら、そんな逆転は結局起こらないこともわかるでしょう。「このもの」の直接性が否定されて、一般性が導き出されたのと同様な理路で、「この人」の直接性は棄却され、一般性が産出されてしまいます。

 あらためて問うてみましょう。感覚的確信において本質とは何でしょうか。もう、「この人」だとか、「このもの」だとか、どちらか一方に本質を求めることができないことはおわかりいただけたのではないかと思います。いうならば、感覚的確信を考察に含まれた運動全体をひっくるめて、感覚的確信である、ということができるでしょう。

 それでは、この運動を箇条書きにまとめることで整理してみましょう。

  1. 「現にある」という性質をもつものが「これ」であると考える。

  2. しかし、「これ」はその内容を変えてしまう。時間で言えば、12時ジャストに「いま」と言っても、言った瞬間からジャストではなくなる。つまり、「これ」は「これ」ではなくなる。

  3. 過ぎ去ってしまった「これ」こそを真の「これ」だと考える。「現にある」ものではなく、「現にあった」ものを「これ」と考える。時間でいうと、もう12時から1分過ぎたとしても、「現にあった」12時ジャストの時間こそが真の「いま」だと考える。

  4. しかし「これ」の「これ性」は、「現にある」という直接性によって与えられていた。だから、3.で掴んだ「これ」は「これ」ではなくなってしまっている。繰り返し時間で言うなら、12時1分の時点で、12時ジャストが「いま」だと言っても、「現にある」のは12時1分の方にある。つまりは、「現にある」という1.の性質を持つものこそが「これ」であると戻りうことになる。

 この運動のどれか一つをとって真理であるとは言えません。この運動の全体が言うなれば真理であり、この運動こそが一般的なものなのです。
 これで、次の章である「意識」の段階へと移行していきます。


 ここからが第二部みたいな感じで、内的なつながりはあまりありません。つらつらと外的なことを書いていきます。
 長らく「精神現象学」の読書記録が滞っていました。理由としましては、どのように書くかを迷っていたからです。
 この読書記録は「Re」とついている通り、2回目の読書記録です。1回目では、Ⅲまで読書記録をつけていました。だから、内容は重複してしまうのです。個人としても、ただただ同じように記録をつけていたのでは飽きてしまいます。
 さらに迷っていた理由は、永井均「哲学探究1」の議論が頭をどうしてもよぎってしまうからです。
 当たり前ですが、この要約よりも、永井さんの議論の方がまとまっているし、洞察に富んでいます。まぁ、比べるまでもないですよね。とくに、感覚的確実性を「いま」と「これ」に分割する時点で、重点が変わってしまっているという指摘は、まさにその通り。さらに、その重点の変更によって、大事な独在性の問題が取り逃がされているという指摘は、やはり素晴らしものです。
 話題は変わりますが、永井さんが基本的に哲学者を引き合いに出すときは、「この哲学者も、このようにして独在性を取り逃がしている!」という指摘になります。しかし、いまのカントに関する連載はちがった方針で取り組まれており、まとまった本になるのが楽しみですね。
 何だか永井さんの話にシフトしてしまいました。要は、「精神現象学」に興味のある人は、「哲学探究1」も面白いから読んでね、ということです。

 迷った挙句、永井さんの議論を特に組み込まず、なるべく内在的な形でまとめる方向に落ち着きました。それでいいのか、どうなのやら。
今回はここまで。

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