腹痛日記、ウィトゲンシュタインとレヴィナス

 本日は三日分のランニングログの走行距離を一挙公開。
 6日目7.1km。7日目1.9km。8日目7.7km。
 かなり走行距離が少ない。やはり腹痛。何回書くんだ。これは自分が心配になってきた。もしかしたらなんらかの内臓の疾患があるのではないかと疑ってしまう。ここ最近、ずっと右脇腹がなんだか重い。走り出してからだ。しかしこれは因果関係がわからない。もともと痛かったが、体を動かしてなかったため鈍感で気づかず、走り出すことで意識できるようになった。無理に走り出してしまったため、体が悲鳴を上げた。なんらかの内蔵的疾患が走ることで顕在化した。様々な可能性がある。この中でも内臓の疾患は怖い。が、ひとまず今日は腹痛をそれほど感じず走れた。以前、手をコルセット代わりにあてがうことで腹痛を緩和することに成功していた。もしかすると腹回りの筋肉が低下しているために腹痛が発生しているのかもしれない。そこで今日は腹圧を意識的に高めて、お腹を膨らませ気味で走った。かなり不自然な意識を必要として、あまり良くないのかもしれないが、腹痛は感じることがあまりなかった。よかった。それどころか、割と気分良く走れた。この感じは嬉しい。
 7kmでもいい。もともとゆっくり走り出したのは、スロージョギングというものを知ってからだ。これによると、走る強度が弱くてもよいと。それでも体内のミトコンドリアが活性化し、長距離的な体が形成されるとのこと。かなりざっくりしたことしか思い出せないので、久しぶりに読み返しておこう。

 今回はレヴィナスの「存在の彼方へ」について、雑記程度のことを書いていく。
 中盤以降、「言語の誤用」という表現が出てくる。他者という言葉は、その真意である彼方性を、「言語の誤用」によって裏切ってしまう。存在でないものを、存在に絡め取ってしまう。このような誤用を正すのが哲学の役割なのだという。
 この話を聞いて、ウィトゲンシュタインを思い浮かべる方も多いのではないだろうか。特に、中期/過渡期ウィトゲンシュタインを。心なるものの神秘性は言語の誤用によってつくりだされたものであり、言語と文法に沿って正しく使うことが哲学であるというような話だ。かなりざっくりとした物言いになるのはご容赦いただきたい。
 この二つを並べると確かに似ている。しかし、差異もあるはずだ。どこに。
 一つ大きいと思われるのは、「言語の誤用」の適応範囲だ。ウィトゲンシュタインは、特に中期においては、「言語の誤用」は適切に正されるべきで、そうすることで哲学的病を治癒できると考えている。たいしてレヴィナスは、「言語の誤用」は致し方ないというスタンスであると思う。哲学さえも言語による裏切りを消し去ることはできない。しかし、それによって、言語で表せないものを示そうとしている。
 こう書くと、再び、ウィトゲンシュタインの別の考えと共鳴する部分も出てくる。
 この2者の共通点を研究したものはないかと思ってAmazonを調べてみると、まんま「ウィトゲンシュタインとレヴィナス」という著作があった。なんだ、あるんだな。少しお値段は張るが、一つ読んでみるか。まずは「存在の彼方へ」の蹴りがついてだな。

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