ボカロとニコ動、ただ懐かしむだけ

 最近はボカロを聞かなくなったな。

 自分の趣味趣向の変動を感じると、物悲しくなる。かつての輝いていたものたちが、もうあのころの輝きを発しなくなった。もちろん今でも聞くといいのだが、なにか大事なものが抜け落ちてしまったような。

 学生の頃は通学中つねに聞いていた。
 当時は、ipodなるものに音楽を詰め込んで持ち歩くのが普通だったが、もうこの感覚も伝わらなくなるのだな。

 どのような曲を聴いていたのかふと気になり、古のボカロランキングを見てみる。
 なんだか、開けてはいけない箱を開けてしまったようだ。ヘビロテしていた曲たちが蘇ってきた。タイトルをただ列挙してみよう。

「心壊サミット」・「1925」・「炉心融解」・「ぼくらの16bit戦争」・「クローバー♣️クラブ」・「歌に形はないけれど」「園庭想空の女少」・「えれくとりっく・えんじぇう」・「ぽっぴっぽー」・「結んで開いて羅刹と骸」・「ペテン師が笑う頃に」・・・

 なんの脈略もない列挙だな。けど、僕の中の無意識的なリンクが存在する。
 特に好きだったpは、暴走p・ハチ・梨元うい・sasakure.UKだっただろうか。それぞれがそれぞれの世界を形作っていた。

 もちろん、それぞれのpは現在も活動されているし、この中で言えば、sasakure.UKやハチ(米津玄師)は今でもよく聞く。だがもう、あの頃のの特別性を持って聞くことができなくなってしまった。

 ボカロ曲は、僕だけのものでありながら、同時にみんなのものでもあった。この現象を可能にしたのが、ニコニコ動画という場所だった。
 僕の周りには、少なくとも公言している範囲では、ボカロの話ができる人はいなかった。その意味でボカロ曲は僕だけのものでった。
 しかしそれは、ネットという広大な空間での共有物でもあった。それをよいと思う同士がたくさん存在していた。

 ニコニコ動画が盛り上がったのは、このような構造が可能だったためだろう。孤立しながらも連帯できる空間。この不可能なはずの連帯を、ニコニコ動画は可能にしていた。

 煎じ詰めれば、僕はボカロ自体が好きであったというよりは、その孤立した連帯が好きだったのだろう。ニコニコ動画はもうある時期から孤立ではなくなり、連帯だけになった。そして今の僕には、もう連帯をも感じることができなくなった。

 そもそも、ニコニコ動画とボカロは切っても切り離せない存在であった。ニコニコ動画から切り離されたボカロに価値があるとは当時は全く信じられなかった。多くの人がそうだっただろう。「私の時間」という曲で、直裁にそのことが歌われている。

ニコニコ動画がなくなった そのときわたしはどうなるの

 この感覚は、当時のニコ厨たちは生で感じでいただろう。しかし、もうその感覚をあの生々しさで思い出すことができない。今はもうボカロは、ニコニコ動画という足場がなくとも存在できている。

 ニコニコ動画とボカロの奇跡的な融合の瞬間、その一瞬の出来事がすきだったんだ。あの奇跡。今振り返ってみても、ニコ動でボカロを享受していたときは特別な時間だった。


 ………という、だれもが大人になって感じる与太話がしたくなったのです。過去を異様に美化したくなるあの現象。

 そのように自分に言い聞かせて、過去の魔物から逃れようとしています。このまま捕まってしまうと、日常生活に異常をきたしいてしまいそうなので。

 

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