クワイン「経験主義のふたつのドグマ」読解 その感想

 先日スペースにてメカ磁気さんによる”クワイン「経験主義のふたつのドグマ」読解”の講義が行われた。今回はその講義とレジュメをもとにして、徒然と書いていく。

意味を排除する態度について

 まずは論脈から外れた前提的なことから。
 この点が常に膜を張るような感じで思考がぼやけてしまっているので、まず明確化していきたい。「意味」という言葉で何を表せるのか考えてみる。
①ある単語によって想起されるイメージ像
②辞書に書いてあるような言葉の定義
 ①を私的意味、②を公的意味としてみよう。私的意味を排除して公的意味に徹するという意気込みで哲学をする、これは十分にわかる。しかし、公的意味をも排除するというのは、あまりにも足場を崩す考えではないか。哲学は根底を疑うものだしそれが好きだが、公的意味までも放棄するとは一体どういうことなのか。哲学は意味に組み込まれながらも、意味を脱する取り組みのような気がする。端から意味を脱していたのでは、何かが抜け落ちてしまうような。
 もしかして、そのような意図で意味を否定しているのではないのかもしれない。それならそれでいいのだが。なんだか、意味がなにを意味するかで頭がグルグルとしてきてしまう。

 ここでは思考を一旦切り替えて、論理学的に狭めて考えてみる。外包と内延である。クワインは内包を認めない立場をとるという。
 ここで一つ思考実験をしてみる。
 4匹の生物だけがいる世界を想定する。観測者である者はその4匹を、犬2匹と猫2匹に分けたとする。では、犬や猫は何を表現しているのか。外延的にいえば、実際の個体を指し示しているということになるだろう。犬とはあの2匹のことで、猫というのは残りの2匹のことだ、という具合になるだろう。対して、内包はどう表現するか。以下の表現は十分ではないが、簡略化して次のようにしてみよう。犬とはワンと鳴くやつであり、猫とはニャーと鳴くやつであると。犬・猫の何らかの性質で持って、説明しようする態度だ。
 ここで思考実験を広げる。この世界に5匹目の生物が現れた。今は犬か猫かのどちらかであると限定をつけておこう。はたしてどうやってこの5匹目を表現するのか。内包の場合は簡単だ。鳴いてもらえばいい。ワンと鳴けば犬で、ニャーと鳴けば猫。それだけのことだ。しかし外延はどうだろうか。どうやって犬・猫を弁別するのか。きっとどちらかに弁別するだおう。そしてなぜそうしたのかと聞けば、そいつが犬/猫だからだというトートロジーにしかならないだろう。
 言いたいのは、外延派閥も何らかの弁別規則を使ってしまっており、それは内包と言われるものと変わらないのではないかということだ。それをブラックボックスにしておくか明言化しておくかの違いだろう。

 もうひとつ、全く別の論脈ではあるが、論理というものは意味の領分と考えているのか、ということだ。自然界には論理はなく人間の思考に論理があるのだから、論理は意味である、おそらくそう捉えられているのではないか。それとも論理を語り得ぬものとしてとらえるのか。私は論理実証主義者に詳しくないが、形而上学的ものをすべて排除するという息巻いている人たちであるとするならば、論理だけを特別視して語り得ぬものとはしないだろう。おそらく意味に組み込むはずだ。そしてもし、その論理すらも認めないという立場だとしたら、それは一体なんなのか?そのことで一体何を表しているのか?先ほども言ったが、足場をあまりに崩し過ぎている気がする。理にしたがう理がないという地点で、それでも理にしたがうという切実な祈りの次元をどうしても求めてしまう。

 ここまでの話は、ふたつのドグマの議論の論脈に直接は関係しないものだ。ただ、久しぶりにこのような分析的な記述に触れ、自分の中でのアレルギー反応を記述しておこうというわけだ。
 もう少し、内容に踏み込んだ話もひとつしてみよう。

Ⅲ-2「 交換可能性」による説明について

 ここでは議論の細部について、一つ批判を加えてみる。これが果たして全体としてどんな意味を持つのか、そもそも妥当なのか、わからないが書き記しておく。

 分析的真理について説明するため、同義性にうったえかけようとする。そこで交換可能性という真理値に依拠した考えを提出する。細かい議論を省いて、この節の結論部を引用する。

技術的な細部は省くが、クワインによれば、「必然的に」といった様相の副詞や反事実的条件法 などを含まない「外延的」な言語であっても、古典数学を表現するのに十分である(場合によって は、科学的叙述一般についても)。しかし、このような外延的言語における「交換可能性」は、「認 知的同義性」を保証しない。そこでは、「独身者」と「結婚していない人」の交換可能性と、「心臓を 持つ動物」と「腎臓を持つ動物」の交換可能性との間に、本質的な違いはないのである。
外延的言語においては、「交換可能性」は(II節のように分析的言明を導出しうる)「認知的同義 性」の十分条件ではない。「必然的に」という内包的副詞やそれに類する働きをする語が備わって いるほど豊かな言語であれば、それは十分条件であるといえるが、しかし、そのような言語の理解 には「分析性」を前提しなければならない。したがって、「交換可能性」に基づいて「認知的同義性」 を説明し、「分析性」の概念を導出するという理路は絶たれている。

 これはもっともな批判のように響く。しかし、そうとは断定できない。
 「交換可能性」が「認知的動議性」の十分条件にならない反例として、「心臓を持つ存在」と「腎臓を持つ存在」の外延が一致する場合が挙げられている。このとき、同じ存在を指し示すとしても、心臓と膵臓の意味はちがう。だから、交換可能性ではうまくいかなというわけだ。
 しかし外延的言語には、様相がない。つまり、「もしも」という可能世界がないということだ。
 ここで思い出したいのが「いたち」の議論だ。これは一種の思考実験で、色と形が合致している世界を考える。丸いものはすべて赤く、四角いものはすべて青い世界を考えてみる。この世界の住人は、「色」と「形」をベッタリとくっついた存在として「いたち」と捉えている。このとき、彼らは「色」と「形」を分類することができるのかという問題だ。ここでそれができるためには、「青い丸」や「赤い四角」など、その世界ではあり得ない組み合わせを「仮想的に想像」できる必要がある。つまり、「もし」という言葉が使えるということが条件だ。
 翻って、「心臓を持つ存在」と「腎臓を持つ存在」が同一対象を指し示す場合を考えてみよう。確かに、この二つを同じとみなすのはおかしい気がする。しかし、外延的言語世界ではまったくおかしくないと言えないか。なぜならその世界には「もし」がないから。私たちは豊かな言語視点でこれを眺めるから、不十分な気がするが、外延的言語ないではまったく分類できなくても問題ない。
 しかし、心臓と腎臓の形・機能が違うから、これを同一と捉えるのは変じゃないかという考えも可能だ。しかし、そうもいかない。ここで大事なのが、「心臓」と「心臓をもつ存在」という名詞が指し示すものが違うことだ。後者は心臓という語を含むため、心臓の機能も重要な要素な気がするがそんなことはない。心臓を所有してさえすればいいのだ。つまり、「心臓」という名詞を使えば「腎臓」と区別をつけることはでき、「心臓を持つ存在」と「腎臓を持つ存在」の区別をつけることはできない。これで全く問題はない。

 これで認知的同義性は説明できる、となるのかどうかは全然わからないが、このように考えることも可能ではないか?

クワインに対しる好意、道徳批判するニーチェとの重ね合わせ

 ここも議論に内在的というよりかは、クワインの徹底ぶりに好感を覚えるという話を書いていく。
 紆余曲折経て、分析的真理と総合的真理を分け隔てる所以はなくなったのだという。これは結局変化しやすさの違いに過ぎないと。科学的理論という普遍の法則によって事実世界を把握するという図式はもう成り立たない。その科学的理論も根底的に覆ってしまうという可能性は捨てきれない。となると、科学と神話を隔てるものは、単なる程度問題になってしまう。神話の説明は確かに精度は低いが、本質的な点からして科学的説明との差異はないということだ。
 この、論理に徹底的に依拠することで自分自身をを崩壊させてしまう態度に、ニーチェの道徳批判の態度に重ね合わせてしまう。ニーチェは道徳が培った誠実さという態度で持って、道徳を突き破ってしまった。同様にクワインは、経験主義が培った論理的思考で持って、その経験主義自身を突き破ってしまう。
 「ドグマなき経験主義」なんて、プラグマティックに言えば必要ない。なぜなら、分析的真理があるという態度で臨んだ方が、研究が進むだろうからだ。2つのドグマをドグマと認め、それでも「ドグマある経験主義」を進んでいくという方が科学的には実りある態度だろう。
 しかしそこで「ドグマなき経験主義」を打ち立てる。これがのちの科学的研究に実りをもたらす可能性はあまりない気がする。ラディカルな変化がない限りは。しかしそれでも、その立場を打ち立てるところに、徹底ぶりに対する好ましさを感じる。


 このように書いたが、まだ頭がまとまらず、何か散らかっているようだ。それがどう散らかっているかを説明できたらいいが、それができれば散らかっていないのだ。どうしようもない。クワインの本を読むしかないか。

今回はここまで。

 

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