Re:「精神現象学」を読む、その9 Ⅱ. 知覚——物と錯覚

精神現象学(著:G.W.F.ヘーゲル・訳:長谷川宏)の読書記録。
今回は「Ⅱ. 知覚——物と錯覚」。
以下本文開始。


  前回では、対象にこそ真理があり、その対象がどのような特徴を持っているかを概観しました。今回は、対象を捉える知覚の方に視点を移していきます。

  対象に真理があるということは、知覚はその対象をなるべく毀損することなく受け取ることが重要になってきます。知覚が何か手を加えてしまったら、その分対象の真理性が失われてしまうからです。

 知覚はどのようにして対象を経験するのでしょうか。これは、前回で対象の性質を確認しましたが、それを捉えることになります。再び、対象の性質を引用しておきましょう。

こうしたさまざまな面を一つにまとめたものが、知覚の真理としての物の完成形であって、そこには、以下の三点が区別されなければならない。
(α)多くの性質がたがいに無関係に受動的な「……も」というかたちで一般的に重ね合わされる場面——物質ないし性質が問題となる場面。
(β)否定の力によって単一性が保持される場面。いいかえれば、対立する性質を排除することによって、一つの物がなりたつ場面。
(γ)上の二つを関係づけるところに生じる、物が多くの性質を持つという場面。

 このような対象の複雑な展開を意識がどう経験するか、ざっと記述してみよう。
 対象は単一のものだと捉えられるのでした。ですが、対象の中には複数の性質が含まれているため、単一のものとは言えなくなります。となると対象は性質の集合体だと断言できるかと言えば、そうとも言えません。なぜなら、個々の性質はそれぞれ他を排除して存在しているからです。では性質が互いを排除して単にバラバラに存在していることが正しいというのかと言えば、それもまた違います。性質同士は互いに干渉せずに存在もしているため、排除するということも間違いとなるからです。ということで対象は複数の性質が干渉せずに集まる一般的な媒体ということができます。さらにもう一捻り。知覚は目の前の個別の真理を捉えるため、いくら一般的性質といっても、それを個別的物として捉えてしまいます。そうすることで結局、最初の感覚的確信に逆戻りになるのです。
 ここの記述は、かなり思考が右往左往するため追うのが大変だとは思いますが、知覚が対象の真理を結局捉え損なってしまっていることさえ掴めれば良いでしょう。

 これでは結局話が進まないではないかと思いますが、そうではありません。知覚と感覚的確信の違いは、知覚が自身を間違いうるものだと自覚している点です。知覚が対象を捉え意識の中に持ちかえったとき、真理を捉え損なってしまいます。それは対象が間違っていたのではなく、知覚が対象に手を加えているからです。ということは、まっさらな対象の部分と、知覚が手を加えた部分を峻別することができれば、真理に辿り着けることになりそうです。

 ではどのようにまっさらな対象と意識の加工を峻別するかみていきましょう。
 先ほどの目眩するような知覚の経験を捉えかえしてみます。
 対象は単一だと思ったら、複数の性質が存在しているのでした。これは、対象に単一性と複数性を帰するため矛盾が生じてしまいます。ですので次のように捉えます。対象には単一性があるのですが、それを捉える意識の側に複数性があるため、複数のものとして捉えられるのです。こうすれば、矛盾は起こりえません。
 平たく言えば、単一の対象を五感を通して捉えるため、複数性が生じるというわけです。

 というわけで、めでたしめでたし。とはいきません。話はそう上手く進まないのです。それぞれに振り分けたつもりでも、どうしてもお互いがお互いを必要としてしますのです。
 ここで改めて問うてみます。対象の単一性は何に由来していると言えるのでしょうか。何によって他のものとは違うものだと言えるのでしょうか。また塩の話でいきましょう。どうのように私たちは塩という単一な対象を捉えているのでしょうか。それは黒でも赤でもなく白で、甘くも酸っぱくもなくしょっぱいから塩なのでしょう。塩だから塩なんだ、といってもなんの説明にもならないでしょう。というわけで、塩の単一性を言い立てようとすれば、塩の複数性を言い立てなけばなりません。
 というわけで再び困った話のなるのです。複数性を知覚の方に掘り投げても、単一性を打ち立てるには複数性が必要になるのです。
 つぎに知覚の複数性の方を問うてみましょう。知覚に複数性を帰しましたが、それだけではやはり上手くいきません。また塩の場合でいきましょう。塩には、白さ・しょっぱさ・立方体などの複数の性質が並んでいます。それが複数バラバラでいるだけで、どうやって私たちは塩を認識できるでしょうか。その複数性をなんらかの形で統一する運動がなければ、それを塩とは言えないでしょう。

 ここまでみてきたように、対象も知覚も、単一性と複数性を変転させていき、一つにとどまることがないのです。
 精神現象学では、さらに対象に複数性・意識に単一性を割り振った場合も考えていますが、その点は飛ばします。結局、単一性と複数性を往還することには変わりありません。


 頭がグルグルする記述が多いかと思いますが、これが弁証法的運動なのです。次回で、知覚の章をまとめたいと思います。
 今回はここまで。

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