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【歴史の話】【#天体ショー】信長は皆既月食を「どこで」見たのか

 2022年11月8日の夜は好条件に恵まれ、日本列島の広い範囲で皆既月食かいきげっしょくが観測できたようですね。

 また、天王星食も同時に発生しましたが、この「皆既月食+惑星食」の組み合わせが日本で見られるのは442年ぶりということで、大変珍しい天体現象でした。
 この記事では、前回つまり442年前のことを考えてみたいと思います。

2022/11/8 18:46時点の部分月食(関東某所より筆者撮影)

いつ、何を、誰が

 442年前は西暦1580年。正確には「1580年7月26日」で、これは和暦では「天正てんしょう8年6月15日」にあたります。

 今回の惑星食は天王星で、肉眼ではもちろん双眼鏡でも見るのが難しかったはずですが、前回は土星であり、しかも大気汚染も街灯もない時代なのでさぞかしきれいに見えたことと想像します。

 ところで、歴史好きの方は、「天正」という元号げんごうにピンと来たはずです。
 「天正」とはあの織田信長おだ のぶながが命名した元号であり、さらに天正8年なら同10年の本能寺の変より前なのでまだ死んでいない。
 いや、生きているどころか、二ヶ月前に顕如けんにょを石山本願寺から退去させたばかりで、余裕があった時期ではないだろうか。

 つまり、天下人織田信長が、得意満面で空を見上げていたに違いない。

 と、現代に生きる多くの人が考えたようで、今回地上波の多くの情報番組で、「信長も見た」という修飾語が付いて紹介されました。

どこで?

 ある局のある情報番組では「信長が見上げた空を再現する」と称して、岐阜城の天守付近にカメラクルーが登ります。

 そのシーンに、筆者は違和感を感じてしまいました。

 天正8年当時、信長の居城は安土あづちであり、岐阜は嫡男信忠のぶただの居城だからです。

 とはいえ、信長が岐阜に出かけていた可能性は否定できませんので、実際にはどこにいたのだろうかを調べてみようと考えました。

信長公記しんちょうこうきは語る

 織田信長はこのころ、相撲観戦に熱中していました。
 もちろん日本相撲協会が当時あるわけがなく、信長自身が資金を出して主催したのです。安土に力士を集めて。

(天正8年)
5月17日、安土で相撲を開催
6月24日、安土で相撲を開催

『信長公記』巻十三

 6月15日当日の行動は不明ですが、少なくともどこかに出陣したり、泊まりの出張をしていたわけではなさそうです。
 そのようなことがあれば、著者太田牛一おおた ぎゅういちが書き洩らすはずがありません。

 また、2日前の6月13日には、力士の円浄寺源七が「不届の子細」のために織田家を追放されています。
 このような、急ぎでもないことを出張先で決めたということは考えにくいですね。
 (源七さん自身にとっては、職を失うわけだから人生の一大事であるのは確かなのですが。)

結論?

 皆既月食があった天正8年6月15日は、限りなく100%に近い確率で、織田信長は安土にいたと考えられます。

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