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【三国志の話】三国志の「失われた世代」(後編)

はじめに

 前編では、古代中国の後漢末期から三国時代が、知識人にとって就職氷河期だったことを書きました。

 後編では、仮にこの時代の名士の子として生まれたとしたらどうなるか、ケーススタディで見ていきたいと思います。

陳寔ちんしょく(104-187? )

早期退職に成功

 魏の司空陳羣ちんぐんの祖父。徳行で知られた清流派の名士。
 第一次党錮事件で追放されて隠棲し、霊帝の即位後、何進かしん袁隗えんかいに招かれたが応じなかった。

「三国志全人名事典」 徳間書店

 宦官と対決した陳蕃ちんばんより年上です。党錮の禁のころは60代ですから、当時としては晩年です。
 職を失うものの、おそらく悠々自適の引退生活を送って、80代まで長寿を保ちました。
 「三国志全人名事典」では没年が187年ですが、186年の説もあるようです。

蔡邕さいよう(113? -192)

世渡り下手の学者

 後漢を代表する学者、文学者。霊帝れいていのとき、召されて議郎となり、六経の定本をつくることを上奏して実現した。
 のち宦官らに讒言されて朔北さくほくに流され、大赦によって帰郷したものの、亡命し、呉に十二年もとどまった。
 董卓とうたくに呼びもどされて重用され、董卓が誅殺されると、その一党と見なされて獄死した。

「三国志全人名事典」 徳間書店

 彼も党錮の禁で職を失った世代。宦官と対立して苦労しましたが、学者色が強いのが幸いしたのか、投獄や処刑されることはなかったようです。
 晩年には董卓とうたくに協力したことで知られます。当時編纂していた後漢の歴史書を、董卓の部下としてでもいいから完成させたいと思ったのでしょう。
 そのため反董卓派のトップである王允おういんと合わず、董卓死後に投獄、さらに処刑もされてしまったのは、『三国志演義』でもおなじみの話です。
 「三国志全人名事典」では生年が113年ですが、130年代生まれが濃厚です。

任安じんあん(124-202)

都会暮らしを嫌って地元にUターン

 後漢末の学者。都で学問を修めたあと、故郷で学生に教えていた。太尉府から博士に任命され、都に招かれたが、病と称して応じなかった。
 のち益州牧の劉焉りゅうえんによって国政の補佐役に推薦されたが、連絡の道がふさがれて結局、招命が降りなかった。

「三国志全人名事典」 徳間書店

 故郷(益州広漢郡)に戻り、 郡や州(つまり地方自治体)の役人を務めたこともあったが、長続きせずに下野します(つまり無職)。

 裕福な豪族が食客を養うのが徳とされていた時代なので、学者に生活費を出してくれた豪族がいたのでしょう。

 現代日本でたとえるなら、地方の中小企業が地元のポスドクに年間200万円くらい嘱託料を出すようなものでしょうか。
 ありえない話ですが、ありえる世の中になってほしいと思います。

 立身出世だけが成功ではないと考えれば、80近い長寿を保ったこともあり、十分成功者です。

荀爽じゅんそう(128-190)

反骨精神を持ち続けた秀才

 後漢末の名士。董卓によってむりやり召し出され、無官の身分から95日間で三公の位にまで昇った。
 のち王允らとともに董卓の暗殺をはかったが、果たさぬうちに病死した。

「三国志全人名事典」 徳間書店

 ご存じ荀彧じゅんいくの叔父さんで、12歳で春秋・論語に通暁したという秀才です。
 「官途に興味を示さず」とあるので、朝廷の腐敗ぶりを知っていたと考えられます。実際、党錮の禁の際には海路で南方へと逃れています。

 おそらく50歳を超えてから、董卓が実権を握ると無理やり協力させられ、三公の一つ司空しくうになりますが、そのときは60歳を超えています。
 今でもまれに民間出身の大臣が誕生することがありますが、そういう感じでしょうか。

 享年63歳は当時としては十分長寿でしょう。もう少し長生きしたら、9歳下の王允のように激動に巻き込まれていたところでした。

楊彪ようひょう(142-225)

典型的なボンボン

 後漢の安帝のときの名臣楊震ようしんの曾孫。霊帝のとき議郎から京兆尹けいちょういん、司徒などをつとめ、献帝けんていのとき司空、太尉と三公を歴任、董卓や李傕りかく郭汜かくしの乱に処して献帝を守り通した。
 袁術えんじゅつの姻戚にあたるため曹操そうそうに殺されかけたが、孔融こうゆうの弁護によって許された。のち漢王室の命脈も尽きたと考え、歩行困難を口実に引退した。
 魏の文帝(曹丕)が即位すると太尉に任命しようとしたが固辞し、光禄大夫の礼遇を授かった。

「三国志全人名事典」徳間書店

 汝南袁氏と並ぶ名門、弘農楊氏の御曹司です。楊震ようしんの一族であることがどれだけすごいことかを理解するには、「宮城谷三国志」を最初から読むのがおススメです。

 「三国志全人名事典」の記述は彼に好意的で、漢王室存続のために尽力したように書かれていますが、筆者には単に保守的で時勢が見えていないだけに見えます。
 しかしさすがは名家の七光り。就職氷河期もなんのそので順調に出世。
 董卓政権では三公のひとつの司徒になり、長安遷都に反対して罷免されています。
 しかし結局長安に付いて行ったのか、192年に司空、195年に太尉と、三公を全て経験。

 しかし実力主義の群雄割拠時代を迎えると、名家出身のプライドがあだになって失敗します。
 曹操が台頭すると太尉を罷免されただけでなく、「宦官出身の曹操に冷たく、袁術に近づいたため、曹操に疎まれた」のだとか。
 彼の息子楊脩ようしゅうと曹操の間の不協和音は、彼の時代から始まったと見るべきでしょう。

まとめ

 後漢末期、政府が腐敗して多くの「失われた世代」の知識人が官僚になれなくなりました。
 そのあと群雄割拠を勝ち上がった曹操劉備りゅうび孫権そんけんはみな実力主義の新興軍閥(つまりベンチャー企業)ですから、家柄や学問だけではなく、実務能力やトップに気に入られる世渡りの才能も必要だったということでしょう。


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