社会に残るもの
最近、自分に残された時間について考えている。
平均寿命や健康寿命のような考え方で言えば、「まだ早い」と思われるかもしれないが、バックパッカーをしていたせいか、人の生き死にに触れる機会も多く、心のどこかで今年・来年死ぬかもしれない、と思っているからだ。誰であったか忘れたがどこかの文豪も「平均寿命は誰の年齢でもない」と書いていたことを記憶している。
最後に残るのはモノやサービスではなく、言葉。
この世に生を受けた以上、何か爪痕を残したい、そんなエゴがあるのである。
1,000-2,000年の間尺で見た時に、社会にいつまでも残るのは、モノやサービスではなく、言葉である。
孔子や孟子など、2,500年前の人間の言葉が今も教科書に載っている、ってすごいですよね。
空海が残した言葉、「辞本涯」
長崎県五島の三井楽という、万葉集にも残る地に、遣唐使として日本から唐に渡った、空海の言葉が遺されている。
辞本涯
日本の最果ての地を去る、という意味だ。
当時、日本から揚子江まで船旅で10日を要した。
史実によれば天候不良により多くの船が難破し、留学僧が命を落としたと言われる。まだ見ぬ大陸での新しい経験や学びに心躍る気持ちと、不可抗力により命を落とすかもしれない恐怖を感じながら、この言葉を残したのかもしれない。
この言葉の価値は現代においてもその土地の付加価値を高めていることにある。「辞本涯」を胸に留めながら眺める五島西沖の海は、特別なものがあった。
言葉が残るかどうかは次の世代が決めるもの
と、申しながら社会に言葉を残そうと意気込んでも残らない気もする。なぜなら、残るかどうかは後世の人が決めるもので、自分自身で決めることができないからだ。自分に今できることは、人生を賭けて成し遂げたい目標を定め、それに向かって必死で取り組み、その過程で湧き出てくる一滴のしずくのような感情を書き留めておくことくらいなのかもしれない。
先月、会社を立ち上げました。
会社設立の経緯や目的などはまた来週、記録させてください。
株式会社文継:https://www.bun-kei.com/