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コハルの食堂日記(第3回)~還暦を迎えまして~

 平成三十年十一月三日。お昼の営業を終え、のれんを一旦しまった午後二時半、片付けも粗方済んだところで、春子は半紙の上に筆ペンで「本日十一月三日の夜の営業は貸し切りとさせていただきます。 味処コハル 店主・春子拝」と達筆をふるう。
 今日、文化の日は春子の夫・勲の誕生日である。今年で六十歳となる。六十歳といえば「還暦」。今日の「味処コハル」、夜の部は勲の「還暦を祝う会」という名目で、勲の同僚の中でもとくに親しい者や旧友らを招待し、店を貸し切りにしたところでの飲み会が行われることになっている。

 その半紙を店の前に貼り出す。そのとき通りかかった近所の、「味処コハル」を贔屓にしてくれている常連客のひとりに春子は声をかけられる。
「春ちゃん、今夜は貸し切りなの? 残念だなぁ、土曜の夜だし久々に飲みに行こうと思ってたのに」
 この低めの声の主は川上という、春子や勲よりは少しばかり若い、つまりは五十代と思われるが、背が低めで頭頂部が禿げ上がりつつあるやや小太りの男性であった。
「ええ、夫の還暦の誕生会なのよ」
「旦那さんの。それは、それは……」
「夫より私のほうが年上なのですけどね」
「俺も旦那さんのお祝いに飛び込んでいいかね」
「ええ、まぁ、ダメじゃないけど……」
 川上と勲とのあいだに面識というものはあるのだろうか、春子は少し困った顔をする。川上は言う。
「お祝いは大勢のほうがいいともいうからね」
「うふふ。あいにく席は満席だから、立ちん坊で飲んでもらうことになるけどね」
「おう、もちろん、立ちん坊でもいいよ」
「じゃあ、川上さんも参加、ね。立ちん坊で、ね」
「ありがとね、春ちゃん」
 そう言い終えると、川上は去っていった。


 夫より四歳年上の春子は、当然ながら今から四年前の平成二十六年に還暦を迎えた。人生の節目の年と位置づけられる還暦の年であるが、「味処コハル」の開業も春子にとって人生の節目といえる年のことであった。昭和六十一年、女の数えで三十三の厄年、敢えて厄といわれる年に春子は自分の店「味処コハル」を構えたのであった。
 もともと勝ち気なところがある春子。殊更、厄年などという迷信とやら、根拠もよくわからないような占術とやらは信じないという立場をとっていた。厄年に店を開いたこと、それはむしろ世間に蔓延る「厄年」という迷信に対する、春子の挑発ですらあったのかもしれない。
 「思い立ったが吉日」の精神で常に積極的に動く、そして冒険をおそれない。それが小さい頃からの春子の生き方であった。そうでもないと、田舎から自分の店を持ちたいという夢ひとつで何も知らずに東京に出てきた娘が、やがて東京に店を構えて、更にその店を三十年余りにもわたって維持することはできまい。

 春子は自らの祖母の還暦の祝いのときを思い出す。昭和三十八年、春子はまだ小学生だった。「かんれき」という言葉を初めて聞いたのはそのときだったかもしれない。かつては還暦を迎えることは人生の大きな節目、今以上に目出度いこととされていた。祖母の還暦は親戚をも迎えて大いに祝われた。
 戦争で動員されて、生きて日本に帰ることのなかった夫、春子にとっては祖父である存在を失ってからも、失ったからこそ、まめに動いていた祖母。
 そんな祖母も昭和五十八年に亡くなった。ちょうど八十歳。前の日まで畑仕事をしていたのに、朝食を食べたあと珍しく眠っていると思っていたら死んでいた、という。春子が十八で秋田の実家を飛び出そうとするときも家族で唯一賛成してくれた祖母。もう少し生きていてくれれば、春子の花嫁姿、そして「味処コハル」をお披露目できたのかもしれない。春子はふとそんなことを思う。

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