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ランニングの良いところとnoteという街を考察してみた

ランニングの良いところは「無防備」になるところかもしれない。大人は特に普段からいろんな装備をまとって生活を送っていると思いますが、それらを脱ぎ去るしかない状態になるのだと思います。

最初は取り繕っても、段々と苦しくなってくると素が出てくる。アスリートは結果を求めて極限を追求していく面もありますが、それは別に「無防備」を目指している訳ではありません。あくまで結果を出す為に走っていく、トレーニングしていくのだと思います。

一方で、これほどランニング愛好家が増えたのも、走ること、運動することで日常のあれやこれやを置いてこれる効能が実感できるからではないでしょうか?

レースでは非日常を味わい、「ハレ」の舞台を走ることで喜びと楽しみと、大きなアクセントをつけることができます。一方でランニングクラブなどの定期的な練習会への参加は日常に「無防備」を組み込む時間、リセットしたり、スタートを切る習慣として活用されていると思います。

もちろん、健康目的、自己向上など、いろいろな目的も効果もランニングにはありますが、走ることでリラックスでき、思考がすっきりする、クリアになるという現象はとにかく大きい意味や価値があるのではないでしょうか?

特にレースは老若男女、世代、肩書を問いません。素の自分で挑むのみ。周りにいるランナーも基本的には「無防備」で、1人の自分としてそこに臨む、走るのみだと思います。そこには過去も未来もあまり関係なく、その瞬間の自分が走る、臨んでいるイメージです。

noteは大変革を迎え、ある一定の方々にとっては居づらい環境になったと言われています。noteという場所は初期の頃は二階層、もともと外で有名な方がnoteで書く、創作、表現し、人気を誇っている場所と、note街の住人として創作や表現に親しむ場として分かれていたと思います。note街は良くも悪くも「閉じた」世界として、「無防備」に居れる、ある程度は素の状態で居れる場所だと感じていた方も多かったかもしれません。

しかし、徐々に街が発展し、外部からの流入も多くなり、オープンな場という感覚が強くなり、もはや「無防備」では居づらくなった感じがあるのではないでしょうか?創作や表現って無防備さ、素の部分って大事な気がしますが、noteにおいては書き続けることで深化すればそういった部分も出てくるかもしれませんが、最初から無防備で挑むには厳しい街になったのかもしれません。

街を散策し、あちこちで井戸端会議が生まれていた場所も相対的に減り、一気に車社会が到来し、目的地まで相当な速度で突っ走る感じが強くなりました。バイパスもでき、それぞれの街に寄ることもなく、一直線に進む。ある意味でリアルの都市と同じ流れをなぞっただけかもしれません。

今はリアルの街も少しずつコミュニティの重要さ、人が交わる場を創り出すことに取り組んでいるところが増えました。ここnoteでも徐々にそういった方向の活動も増えていくかもしれません。過渡期でもあり、いつでも変化が大きく訪れるのがリアルもnoteも同じだと思います。

今回のnoteではランニングとnoteという一見、なんの関係も無さそうな2つを関連付けて書きました。もしかしたら最初は走ることで出てくる隙、無防備さが恥ずかしいと感じることもあるかもしれません。ちょっとした心理障壁があるかもしれません。仲間が居るから乗り越えて参加できるのかもしれませんし、1人で黙々と走ることで気にしないでいれるのかもしれません。

創作、表現、noteも同じで最初は恥ずかしさや緊張感が高く、1回の投稿ごとに勇気を必要とすると思います。神屋も最初はそうでした。今は当たり前の日常としてnoteを書き続けているので全然、平気になりました。

この両者の日常化、習慣化を経験する、持続することは大きな意味や価値があると思います。走遊Labで一緒に経験しませんか?体験しませんか?サポートもします。


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