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『つかふ 使用論ノート』鷲田清一

キーワードは身体性。ランナーも、そうでない方も。生きている限りはずっと向き合っていくのが自らの肉体です。AIが進化しようと、ロボットやテクノロジーが発展しようと、自分の肉体、他者それぞれの身体は変わらずそこにあり、意識すべきものです。

興味深いことがたくさん書いてあるので読んでみませんか?

身体の用法、つまりは身体性を再編成してゆく過程でもある。身体性の拡張は、じぶんとは異なる物の構造の採り入れであり、それが新たに身体の用法のうちに参入してくるからである。物の構造がわが身のうちに《受肉》してくるのである。

それを楽器でいえば、身体と楽器の相互受胎ということになろうか。(中略)まるでわが家に収まるかのようにそのオルガン装置のなかにうまく身を据えつけてしまう。じぶんの手足の位置を、わざわざ見て確認しなくても熟知しているように、鍵盤や音管の配置もすっとわかる。そしてふだんとなんら変わらずに曲を奏でるのである。

音楽の装置のなかに身を据えてゆくオルガン奏者のこの熟知を、メルロ=ポンティは「昵懇知」(savoir de familiarité )と呼んでいる。ちなみに、こうした知のあり方は、ウィリアムジェイムズやラッセルなど英米の哲学者が、ある対象についての知識(knowledge about)と対比して、対象に体でなじんでいるという意味で「熟知」(knowledge by acquaintance )と呼んだものにおおよそあたるだろう。

そしてこのとき、それへと向かって奏者の身体とオルガンの装備とを糾合してゆくもの、それこそが音楽なのだとメルロ=ポンティは言う。

ちょっと長いですが引用します。最後の部分の「それこそが音楽」という部分を言い換えればスポーツにも同じことが言えると思います。身体性が伴うものは「全てスポーツ」と言い換えることも可能だと思います。

「スポーツを日常に」という掛け声は、現在はむしろスポーツと日常が切り離された状態だという認識からスタートします。でも本当はスポーツは日常そのもので、遊びも仕事も、創作も家事や育児も寝ること、食事も全て含まれます。

というと、ちょっと怪しい言い方になってきてしまいますが、どの行動をとっても、思考でさえもその身体性からは逃れられません。意図的に大きくずらし妄想を展開することも可能と言えば可能ですが、ある程度の身体性を伴わないと荒唐無稽すぎて理解が追い付かないと思います。

昨今で言えばAIなどでもそうで、データや情報から導き出す=人の営みから借り受けて何かを構築することとなるのですが、組み合わせ次第では身体性から遠ざかりすぎて何も見えない、理解できないものになりかねません。そこの判断をするのが結局は人間だと思うので、AIや機械、ロボットがいくら発展しても、やはり主役は人間でなければいけないと思います。

その為にはスポーツや遊び、仕事や学びを通じて身体性を高める必要があります。身体性を高めるとは、上記の引用部分にもあるように、自分の「内」に包括できるように、それらを手中に収める行為、手法を学び、経験する必要があります。その為には「スポーツをする」ことは重要だと思います。

匠の技、熟練という言葉は昔からありますが、最近はなかなか徒弟、小さいころから修行する機会、環境は少なくなっていると思います。だからこそ、スポーツを通じ、多くの身体技法を試行し、学ぶ必要があると考えます。専門特化するのではなく、多様な身体技法を学ぶ。多くの身体技法の中で、1つ1つの技法を深く追究し、熟練度を高めていく。

そういったことの大切さがこの引用部分に含まれていると考えます。


「なじむ」とは、身体と物との相互の異質性が減じるということである。二つの境が溶けてくるのである。道具を使い込むとは、先の杖の場合がそうであったように、身体と道具との境界が薄れてきて、外部の物への感覚は逆に道具の先端へと移行し、そこで生起するることになる。

ランニングにおいて例えばシューズはイメージしやすいでしょうか?履いていて違和感あるものだと気持ちよく走れないですよね?

ランニングはシンプルですが、それでもここに当てはまる要素:トレーニング器具など以外にも、環境も含むことができます。

不整地や起伏、気象さえも「使いこなす」ことができるか?その為にも先ずは自らの身体を把握し、機能向上を図りたいもの。

これは家事でも仕事でも言えると思います。


こうした小手調べは、まさに《手づくり》(fait à la main ) の過程である。この状況下でそれが使えるかどうかはまさに手で験し、測るほかないからである。物の大きさや長さ、あるいは物との隔たりを測るとき、わたしたちは今日ではあたりまえのようにメートルという単位を念頭に置いて目測している。(中略)スマートフォンの映像は、指先の操作一つでかんたんに拡大/縮小が可能なために、その操作になじんでゆくうち、物のリアルな、あるいは想像的な大きさや隔たりといったものの見当が鈍ってくる。 精度を落としてくる。そういうときにひとがつねに立ち戻るのは、身体のヴォリューム感であろう。じっさい、ひとはかつて、みずからの身体を基にして世界を測定していた。左右に大きく拡げた腕の幅、指先から肘までの長さ、拡げた掌の親指と小指の隔たり。これらを単位に、ものの長さを測ってきた。あるいは、歩数で距離を測っていた。そしてそれらの物差しを未知の対象にも適用することで、世界の認識を想像的に拡張してきた



リアリティの岩盤はあくまで個々の身体のうちにある。大きさ、長さ、隔たりの感覚は、身体のヴォリュームにもとづくものだ。結局のところ、ひとはみずからの大きさを物差しとしてしか世の中を見れないのだからである。

ランナーは距離感と時間感覚が向上していきます。身体操作や動作を意識してトレーニング、日々活動していくと多くの気付きと見えてくるものがあります。

いわゆる熟練技、肌感覚はこうした習熟度を上げる作業をし続けること、そのことを知って取り組むことが大切ですね。

前田が長い修業を経てもらす言葉、「稽古は、自分がするというよりも、境や木刀が勝手にしてくれるようになってきた」とは較べようもないが、微かなりともその境地は想像できる。「手なれ」や「上達ということがあって、学びをくり返すうち身体から無用な力が抜けてゆくのだ。楽器演奏などについてもきっとそういうことがいえるのだろう。あらかじめ完成形をイメージしてそれに向けてひたすら練習をくり返すというのとは違う学びのあり方である。それは、生身の体に負荷をかけつづけるのではなくーこのような練習は身体を酷使するものであるので年をとるごとに重い負担になってゆく、何かに身をゆだねるという仕方で、身体に新たな運動を呼び込むような練習、身体の運動に新たな次元を開くような習練なのであろう。


ちょうど言語学でシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)の相互過剰ということが言われるように、道具と用途も、一対一対応で連結されているのではなく、相互に当初の機能的な連結をはみ出てゆくものなのだとすれば、職人がある《確かさ〉のなかに、つまりは私的ではないあるわざの伝承のなかにいると言うとき、そこには道具の機能的構造や、道具使用者の「腕」のみならず、それでもってできる行為の「可能域」もまた伝承されていることになる。道具製作者と使用者は、まぎれもなく歴史の一定の位相で、過去から伝えられてきたことを更新しつつ仕事をしているのだということになる。ここで更新とは、構造を引き継ぎつつ変換するという動的な過程のことである。このような構造変換の過程を道具製作と使用の場面に挿し入れるのは、まさに「つくる」と「つかう」(使いこなす)という人のわざである。そしてそれが人に可能なのは、人の身体じたいがそういうかたちで編制されてきたからである。

この辺りはアートっぽい表現に聞こえますが、その部分をこうして言語化していくと通じる人も増えていくと思います。今はこうした意識、追究をしていく人がどれほど居るかはわかりません。noteを書く人なら「書くことに行き詰まった時に」上記のようなことにたどり着く人も居るかもしれません。

自ら動かそうとしなくても自然と動くようになる。環境に動きを作ってもらう、育まれるということもあります。それは思考を放棄するのとはまた違う境地だったりもします。

「道を極める」はちょっと古い言葉かもしれませんが、とても楽しいことでもあります。とても豊かなことでもあると思います。

そしてそれを紡いでいくこともまた楽しいし、有意義ですね。書くこと、伝えていくこと、教えること・・・

様々な方法で残していく、シェアしていくことも大切です。何より自身がそうした取り組みを探究し、続けていきたいものですね。


いま目の前で起こっていることが未知のもの、想像すらしたことがないもので、それが何を意味するのかわからないときに、わからないままそれに正確に対応できるかどうかは、人が生き延びるうえでまさに死活のことである。マニュアルやレシピに記載されていない事態を前にして、わたしがいまここで必要とするのはどのような資材であり、どのような行動なのか、それはその場ですぐに突きとめられるものではない。それでも「やりくり」や「まかない」というかたちで当座を凌ぐことができるのは、あのプリコラージュの知恵、つまり「これはいつか何かの役に立つかもしれない」(Ca peut toujours servir)と取っておいたありあわせのもので間に合わせる「腕」が、完全一致とは言えないまでも身についていたからだろう。その「腕」を磨くために不断に手入れと手直しを怠らなかったからであろう役に立たない道具はもはや道具ではない。道具はその有用性によって、ただの物ではなくほかならぬ道具である。しかし、あらかじめ定められた有用性に沿って作られてあるというのが道具の存在を支えるのではない。「これはいつか何かの役に立つかもしれない」という潜勢的な判断力とそれに見合う「腕」こそが、道具を道具として活かす。道具は使われるなかで生きる。あるいは育ってゆく


オーバースペックと言いますが、自分の実力が追い付いていないのに高性能な道具を使っても上手くマッチしないこともあると思います。

達人になればなるほど、その腕を存分に活かせる道具や環境は重要度を増すと思いますが、初心の頃に達人の道具を手にしても上手く使いこなせなかったり、道具に選ばれない面もあると思います。道具も人を選ぶと言いますか・・・

道具はあくまで道具であり、自分のパフォーマンスを、目的を達成する手段です。形から入るというのはモチベーション面から見れば意味はありますが、道具とのミスマッチは念頭に置いておきたいところですね。

初期に高額な道具を選ぶくらいなら、修練する環境を選んで投資して欲しいところです。腕を磨く。育む。基礎を構築し、応用も発展も不測の事態にも如何様にも対応できる力を養う、欲することが重要だと思います。



そういった意味でも継続して走遊Labで身体を使って遊んでみませんか?学んだり、研究しませんか?

小さい頃からシニアまで、ずっと役立つ、いつでも活きるものを得ることができます。




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