アキレスと厠

ちょうど1か月くらい前のことだ。その日の午前4時頃、急な腹痛により目が覚める。たまに起こる現象だし、悲しいことにさほど珍しくもない。一寸法師でも飲み込んだかと思うほどの、内側から針を打たれる衝撃に耐えながらトイレに駆け込んだ。そしてしばらくは「本体」が出るまで、内側からの針攻撃に耐えなければならない。保存してある綺麗な少年の画像をスマホ画面で見ながら耐えるという、ほぼいつも通りの対応を行った。いつもと様子が違うことに気づいたのは、「本体」が去り針攻撃が終了したあたりのことだった。きれいな少年の画像を一通りめでた後、画面から顔を上げると、どうやら、座って正面のドアの上の天井との境あたりに「顔」らしきものがあり、そいつと目が合った。そんなことがあれば、ギョッとするのが一般的なのだろうが、どういうわけかそのときは腹痛が終了した解放感、あるいは綺麗な少年を鑑賞した後だからかもしれないが、何らの恐怖もわかなかった。そして、そいつはよく見ると「顔」ではない。「面」だ。それもどうやら「能面」らしい。そいつは白目と歯の部分が黄金色をしており、少し恨めしい感じの表情に見えた。髪を表す頭部の黒い部分が、センター分けの長い感じに見えるから、たぶん女だろう。しばらくそいつと目を合わせながらぼーつとしていると、さすがに少し不気味になってきた。


なんでこんなものがウチにあるんだ、買ってきてこんなとこに飾った記憶はないぞ、と思い、そいつに手を伸ばし外そうとした。ところがどういうわけか外れない。接着剤で固定でもしてるのか、と思い、接着面を見ると、どうやら壁にめり込んでいるらしく、引きはがそうとしても、動かすことすらできない。めり込んでいるというより、壁から能面が生えてきているようにすら感じる。いよいよ気味が悪くなってきたので、こいつは放っておいて一旦トイレから出るか、とドアノブを回して引いた。ところが、ドアを引こうとしても動かない。ドアノブは回る。内側のカギは掛けていない。カギは、ドアノブの回転を固定するタイプのもので、ドアノブ中央のツマミ(正式な名称がわからないが)が縦になっている状態から、横にひねると施錠できるようになっている。ツマミは縦になっている。念のため、ツマミを縦から横に回した。当然のように、ドアノブは回転しない。再びツマミを縦に戻すと、ドアノブは回転する。回転するのはいつものことだが、そこからドアを引こうとしても、ドアは微動だにしない。一応、ドア周囲の隙間を見てみたが、何かが挟まっているという様子はない。廊下の照明が隙間から漏れているのもその証拠となろう。一体なんなんだ、とわけがわからぬまま、自力での脱出をあきらめて、とりあえずマンション管理者に助けを呼ぼうとスマホを取り上げた。が、この方策もあっけなく打ち砕かれた。スマホはぐったりと、白抜きの三角つまり圏外を示しへたばっていた。おまけに自室WiFiも途絶している。普段はバリ4でWiFiも途切れることなく使えているのに、何故。能面の女は、相変わらず黄金の目と歯をむき出しにして虚空を見つめている。俺はここで能面の女と、干からびるのを待つしかないのか(能面は別に干からびないだろ)。


焦燥と恐怖が頂点に達しつつあったので、追い詰められたらたいていの人がやるであろう、ドアをこぶし側面で連打し、おーい誰か、閉じ込められた、助けてくれ!と目いっぱいの声量で叫んだ。実はマンション管理人の部屋がちょうど俺の部屋の真上であるため、何度かドア連打と絶叫をすれば管理人が気づいてくれるかもしれないのだ。連打と叫びの間抜けな儀式が、5回、あるいは10回目に及んだぐらいの時、ドアの外から「はあ~~い」「はああ~~~い」と呼ぶ声がした。俺が儀式をやめて「ああ、すいません。実はドアが壊れたらしくて、閉じ込められちゃって…」とやや大きめの声でレスポンスを返すと「開いてますよ~そこ」と返ってきた。ドアは何事もなかったかのように開き、いやー助かりました、ありがとうございます、と言って外へ出た。廊下で見た声の主は、初老の爺さんである管理人ではなかったようだ。グレーのカーディガンに薄ピンクのロングスカート姿の女性だった。しかし、顔を見るや否やそういった外見の情報など、すべてどうでもよくなった。黄金の目と歯が、廊下の照明をわずかに反射していた。女性がつけていたのは、明らかにさっき見た能面だった。さすがにその瞬間、あるいは数秒程度フリーズしてしまった。しかし、ここで怯んではいかんなという感じになったので、その女性ともう少し言葉を交わしてみることにした

「ありがとうございます、助かりました。管理人さんの関係者の方ですか」

「違いますよ。ここ私の部屋」

「えっ?だってここは僕の」

「427ですよ、427号室。私の部屋です」

「え?え?でもトイレに閉じ込められ」

「前にもあったんですよ、何故か別の部屋の人がトイレに居るの」

「前にも???だって、どうして?」

「わかんないですよ」

「じゃここは僕の部屋、527じゃなくて…」

「はい、そうです」

その能面の女性は、長居されても迷惑なんでそろそろ…という雰囲気を放ちだしたので、疑問で爆発しそうな頭を抱えながらではあるが、では失礼します、とその部屋を出ることにした。しかし、部屋を出るにあたってどうしても解消しておきたかった疑問を、その女性にぶつけることにした。

「あの、大変失礼かもしれませんが…どうしてお面を被っているのでしょうか」

「ああ…これね、※■Ξ@¥〒からですね」

「すいません、今なんと?」

「※■Ξ@¥〒ですね」

「えっ???」

「※■Ξ@¥〒」

まったく何を言っているのか聞き取れなかったため、妙なことを聞いてすいませんでした、と謝りその部屋を出ることにした。そこの部屋番号にはたしかに「427」と記されていた。いったい何だったんだ、かなりリアルな悪夢かこれは、と思いつつ階段に向かい自室を目指した。ふと、スマホに目をやると、4:01を表示していた。4時に起きた気がするが、たった1分の出来事だったのか。自室のドア前まで来て、あっしまった鍵持ってないぞ、と思ったが、ドアは難なく開いた。帰宅時は施錠の上、内鍵もかけるというのに、どういうことか(し忘れたのか?)と思ったが、今度こそはと2重にドアをロックした後、念のため貴重品を確認し、問題ないことがわかり、睡魔が高速で襲ってきたのでそのままベッドに倒れた。


8時ごろに再び目が覚めた。さっきのあのリアルな悪夢はなんだったんだ、と思い体を起こすと、足がなんだか汚れている。まるで、素足で外でも歩いたみたいだな、と思い風呂場に行って足を洗った後、ベッドや廊下も砂粒のようなゴミが散らばっているため掃除機で吸わせた。一応、トイレの中も確認しておいた。ドアは問題なく開閉する。カギも異常なし。スマホの通信環境も無問題(バリ4&WiFiはOK)。能面は…あるわけないだろ。念のため、管理人にも確認を取っておくか、と能面や427号室の能面女のことは伏せて、トイレのドアに閉じ込められるリスクについて電話で聞くことにした。世話好きで知られる管理人は、もし今時間があるなら今からこっち来て話さない?今はうるさいのもいないし、ちょうど時間が空いてるんだ、コーヒーおごるよ、と誘ってきたので、時間があまっているのはこっちも同じようなものだし、と乗ることにした。爺さんの部屋でコーヒーを飲んでほっとしたせいか、伏せていた事柄も含めて、これは夢あるいは幻覚かもしれませんが…と断った上で、ことのいきさつをすべて話してしまった。爺さんは、へぇ不思議なこともあるもんだねぇ、と話をおおむね面白がってくれた様子だった。そして、実はね、怖がらせるわけじゃないだが…と応接間の入り口付近斜め上を左手で指さした……ゴールドの目と歯を光らせてやがる!俺はあの時のように、再びフリーズした。いやいや、決して怖がらせるつもりじゃないし、私はあなたに何もしてませんよ、と管理人は落ち着かせるように俺に言った。あれはね、うちの母ちゃんの実家から魔除けにどうぞってんで、その実家の付き合いのある職人から貰ったものなんだよ。同じ面が2枚あってね、1枚は実家に、もう1枚はこっちで飾らせてもらってるんだ。それが半年くらい前かな。最初は気味が悪かったけどさ、だんだん親しみ、とまでは言わないけど、なんだか本当にこのマンションを守ってくれている気がしてね。そのおかげかどうかは知らないけど、部屋借りてくれる人がそれからずいぶん増えたんだよ。そう話すと管理人兼大家(所有者)は満足そうにコーヒーを飲みほした。最後に、俺はグレーのカーディガン能面女のことについて聞いてみた。爺さんは、うーん、住人にそんな能面つけてる変なのは見たことないし、逆にグレーのカーディガンにロングスカートなんていでたちの女性なんて結構いるでしょ。そういうのを疑ってちゃきりがないよ、と落ち着かせるように言った。たしかにそうですね、と返答し、じゃあトイレのドアは開かないと確かに困るから、定期的に点検増やすようにはしときますね、という回答を得て爺さんの部屋を出ていくことにした。去り際に、ああ、そうそう、427号室だけど、一度ご自分の目で確かめて見なさいよ、と言われたので、今からでも見に行くか、と部屋を後にした。


427号室は管理人の部屋からすれば真下の2階下にあるので、ほぼ真横にある中央階段を下ればすぐにでも着く。しかし、俺はさっきの出来事を頭の中で整理しながら歩きたかったので、あえてマンション正面の右端にある階段を目指し、そこから降りることにした。階段を下りながら、能面女について話しているときの爺さんの様子を思い出していた。というのも、その話をしているときの爺さんは、普段の倍くらいは目が開いてる感じだった。やや興奮、というかかなり驚いているような顔つきだった気がするのだ。そういえば、その体験(幻覚?)をしているとき、能面女には能面以外で、2つの奇妙な点があったことを思い出した。1つは俺がトイレから出て廊下を歩くたびに、その女は遠ざかっている気がしたのだ。女がお前を警戒して離れているだけじゃないのか、と言われそうだがそうじゃない。俺が歩いて廊下のある所まで進んだとすると、女は歩いたり動いたりする様子もなく、いつの間にか遠ざかっている、そんな奇妙な感じなんだ。それともう1つ、能面をつけている理由について俺が尋ねた時の、彼女の回答だ。その理由についての、肝心な部分が何を言っているのかまったく聞き取れなかった。というか、その部分に関しては人の話している声、というよりは機械音が発せられたような感じなのだ。その部分だけが、モーターが高速でキュィーーとうなりを上げているかのような音にしか聞こえなかった。それ以外は、かなり明瞭に言葉として受け取れるにも関わらずだ。

そうこうしているうちに、4階についた。端の階段を正面右に折れると、420、421、422…というように部屋が並んでいる。普段は中央のそれも含めて、階段などまったく使わないし、マンション正面の左端にあるエレベーターしかこれまで使ったことがなかった。最近運動不足だし、風景でも眺めながら今後は階段も使っていきますかね、などと思っていると、ようやく中央階段付近にさしかかった。と、その時既に異変に気づくことになった。中央階段の4階付近だけ、どういうわけか空間が広くなっている。マンション正面の中央階段を挟んで右側が426号室だ。なので、その左側は必然的に427号室、のはずだった。しかし、変な言い方かもしれないが427号室が本来あるべきその場所は、いわば空きスペースとなっており、その隣には428号室が鎮座ましましていた。さらに奇妙なことに、その空きスペースは、あたかも一部屋がまるごときれいに削りとられたかのような様相を呈していた。一体、何のためにこのような空きスペースが必要なのだろうか……

とりあえず427号室が無いことはわかったし、俺はこれ以上、この件について考えるのをやめようと思った。思うに、能面女だの427号室は、幻覚、それもどうやら、足の汚れや外を歩き回って部屋に戻ったことは事実かもしれないので、一種の夢遊病的な行動だったのだろう。この謎の空きスペースについても管理人に聞けば真相ははっきりするのかもしれないが、せっかく多少は打ち解けた感じになったし、これ以上この件に異様な情熱を燃やす行動は異常者の烙印を押されかねない。そう思い、その場を立ち去ろうとしたら、空きスペースの左上のあたり、視界の端ぎりぎりあたりに、何かが反射してできたかのような「黄金の光」がわずかに見えた。俺は、あえてそれを直視しようとせず、その場をゆっくりと去っていった。すると、黄金の光もまた俺が進むと遠ざかり、やがて視界の外へと消えていったようだ。

俺は今もその部屋を替えることなく住み続けている(駅近で安いから)。

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