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見守ること、支えることの難しさ

小さい頃から変なところで敏感で、今も時々、普通の人なら気にしないようなことで傷ついてしまう。

ここ数年でいちばん傷ついた言葉は、ある人に言われた「〇〇(詳細は書けないんだごめん)することがニワオさんにとって本当にしあわせなのかわからない」「彼女は僕の下にいないほうがしあわせだったかもしれない」だ。

普通なら、「そんなにもわたしのしあわせを真剣に考えてくれるなんて…‼」と感激するところだろう。

だけどわたしには、その言葉がまるで棘のように、いやそんなにかわいいもんじゃない、剣で刺されたかのようにぐっさりと刺さって、しんどくてしんどくて抜けがらのようになってしまった。
しばらくの間、文字通り起き上がれなくなって、泣くかぼーっとするかどちらかしかできなかった。

最初、わたしは怒っていた。
どうしてわたしにとって何がしあわせなのかをあなたが勝手に決めちゃうの、他人のしあわせを自分が決められると思っているだなんておこがましいよ、何様のつもりなの、と。

だけれども次第に、怒りの背後に悲しみがあることに気付いていった。

そう、わたしは悲しかったのだ。
何が?
わたし自身の中にある、「自分でしあわせを掴む力」を信じてもらえなかったことがだ。

わたしをしあわせにするのは、わたしの仕事だ。
やりたいことをやった結果、いわゆる「不遇」な状況に置かれたとしたって、それを人のせいにするわたしじゃない。
だから彼がそんなことを気にする必要はないのに、むしろ踏み込まないでほしいくらいなのに、勝手にずかずかと踏み込まれたことが、悲しくて腹立たしいのだった。

あれから時が経って、その言葉をわたしに投げた「彼」の気持ちも、うっすら想像はできるようになった。
彼が彼なりに一生懸命に、わたしのことを考えてくれていたこと。
彼なりの優しさから出てきた言葉で、決してわたしが傷つくだなんて予想していなかったであろうこと。
いくらわたしが「あなたのせいにしないからどんな結果になっても気にしないでほしい」と言っても、きっといざわたしが「不遇」な状況になったら責任を感じるであろうこと。
それら全部、わたしが彼の立場だったら同じように考えていたかもしれないこと。

誰かの側で、誰かを見守ったり、支えたりすることは本当に難しい。
相手の気持ちを尊重しなければと頭ではわかっていても、いざしんどそうにしている様子を目の当たりにしたら、自分の心配を優先してストップをかけたくもなるだろう。

そういう時、答えなんかないのだ。
あの時、仮に「ニワオさんの好きにしていいよ、僕はなんでも応援するから」と言われていたとしても、実際にそのままつき進んでいたらわたしが辛かったかもしれない。
いい方向に向かった可能性と同じくらい、悪い方向に向かった可能性もあるのだ。

そういう時は、一生懸命に考えた自分自身と、相手と自分の間にある絆とでも呼ぶようなものを信じるしかないのだろうな、と思う。
きちんと考え抜いた結果であるなら、どんな結果になっても責任をもてるし、「この人とならどんな結果になっても大丈夫」と信じられるなら、きっとなんとかなる。

ああ、本当に、人が生きるということは、不確定なことだらけ。
どんな時も、自分と自分の大切な人のことを信じて、明るい方をめがけて進んでいけたらいいね。

最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。