一貫性のある人生と、ふらふら生きてきた私

小さいころから今まで、「夢をもつこと」の大切さを説かれてきた。
保育園でも、小学校でも、中学校でも、高校でも。
言葉や表現が少しずつ違っていても、いつも「将来どんな風になりたい?」と聞かれてきた。

一貫性のある人生
昨日も書いた通り、私は今就活をしている。
就活本に出てくる「良いES」の例に共通しているのは、実に一貫性のある人生を歩んでいるということだ。

例えばこんな感じだ。

・小さいころから自然が好きで、大学でも生態系に関する分野を専攻しました。環境問題の解決に貢献したいから、クリーンエネルギーに力を入れている御社を志望します。
・ずっと読書が好きで、大学は文学部に入り、語学を勉強したくて海外留学をしました。本を作るために編集者になりたいので、出版社の中でも歴史のある御社を志望します。

幼少期から興味があったこと、好きなことを一貫して続けており、今やりたいこと・将来やりたいこともそれと関連している。
とても筋の通ったストーリーで、わかりやすくて、いいなあ、確かにこんな人材なら採りたくなるよなあ、と思う。

ふらふら生きてきた、今までの私
私自身を振り返ってみると、幼少期から今まで続けているものなんてろくにない。
小さいころは読書が好きで、しかも小学生で太宰治やらドフトエフスキーやら読むような、ませた子どもだった。
図書室の隅っこの、誰も借りないような「日本文学全集」とか「世界文学全集」なんかも読んでいたし、年間100冊本を読むと目標を立てて、半年足らずで達成したこともある。

中学校では運動部に入部したが、読書好きは続いた。
しかし、高校に入ってからはぱたりと読まなくなった。
中学校と同じ運動部に入部した上、スパルタな進学校だったので、読書をする時間の余裕が無くなってしまったのだ。
一度失われた読書習慣は大学に入っても戻らず、今でも趣味としての読書はしない。

ちなみに4歳から10年程ピアノを習っていたが、吹奏楽部や合唱部にも入らなかった。
中学生の頃、読書やピアノというどちらかというと文化系の趣味をもっているくせに運動部に所属していたから、なんとなくどちらのコミュニティにも所属しづらくて、居心地が悪かったのを覚えている。

大学に入ってからは、中高と続けた運動部には入らず、イベントを開催するサークルに入った。
2年生の夏まではサークルに夢中だったが、人間関係で揉めたのをきっかけに、割とあっさりと辞めた。
サークルを辞めた後は、半年くらいのスパンでコミットしているものが変わっていった。
カフェのバイトや、ゼミ、院試の準備、卒論…。

今志望している業界も、そこに興味をもったきっかけはもちろんあるけれど、ごく最近のことだ。
私が大学院で専攻してきたことや、趣味、習い事とも関わりがない。
ずっと一貫してその分野を志してきた人に比べれば、私が語る志望動機は薄っぺらくて、説得力に欠けてしまうかもしれない。

でも、別に、そういう人がいたっていいんじゃない?と思う。
ていうか、一貫性があることって、そんなに大事なの…?とも。

人生はまだまだ続くから
「人生の中で起こったこと、してきたことを点として、結んでみると線になる」という考え方がある。
その線を辿ると自分だけの絵が見えて、自分の人生を1つの物語として捉えることができる、と。

先に挙げた例のような、一貫性のあるストーリーを語れる人は、既に絵がなんとなく描けている人なのだろう。
私はまだ絵が描けない。
見る人が見れば何かしら見えるのかもしれないが、少なくとも自分では何も描けていない。

でも、私はまだ20代で、これから先も人生は50年、60年とあるのだ。
今の段階で絵が見えている必要なんてあるのだろうか?
これから先見えればいいんじゃないだろうか。
大切なのは、たとえやめてしまったことでも、その時自分が心からやりたいと思うことをして生きてきたということだと思うから。
将来の展望や目標だって、後から変わったっていいんだ。
「今は、将来こんな風になりたいと思ってる」と、今の私が一生懸命考えること自体に価値があると思う。

というわけで、ふらふら生きてきた私のまま、就活に臨みたいと思う。











最後までお読みいただきありがとうございます。 これからもたくさん書いていきますので、また会えますように。