56歳にして体育会系的な縦社会のしきたりは全否定することにした

乃木坂メンバーの子が、「演出家がパワハラしてくる」とラジオの生放送で告発し、一時期問題になった。その演出家は辞意を申し出て、乃木坂ライブの演出からすべて降りた。

ネット上では演出家を批判する声が多かったようだが、演出家擁護の意見としては「最近の子は繊細だから(苦笑)」みたいのがあって、たいへん不快な気持ちになった。
「繊細な子」が、ラジオの生放送で突然、自分のグループ内での立場がどうなるかもわからないのに、演出家の名前を出して告発などするだろうか。相当な覚悟が必要であり、繊細どころか、むしろ「肝が座っている」と考える方が普通である。

乃木坂卒業生の中には演出家を擁護する意見が一件だけあり、ストーリーに投稿されたからひと晩で消えてしまった。
この件について、この「演出家を擁護した子」を批判する声もあるが、この子が乃木坂在籍時代には演出家もまともな指導をしていたかもしれないし、人間、変わることもあるので、その子を批判するのは筋違いだろう。

その演出家の過去の発言がほじくり返されていて、「アイドルの子は他の現場ではだれからも怒られないから天狗になりがちなので、わざと叱っている」的なことを言っていた。
実際、やる気のない子や、適当にやろうとしている子が存在するのは容易に想像できる。
私は「厳しい指導」そのものを否定しているわけではない。

ただし、私自身が、とりたててパワハラでもモラハラでもないが厳しい指導を、学生時代に受けたとしたら(上記に書いた乃木坂の件とはまったく関係がなく)、その指導者は一生、恨むだろうし、積極的に復讐することはないが、チャンスがあれば、復讐していたと思う。
そもそも、圧迫的な指導者は教え子から恨まれるのが仕事である。

よく、アスリートでもタレントでも、「あの厳しい指導があったから今の私がある。当時はいやだと思うこともあったが、今では感謝している」
とか言う。
が、私の場合、そういう感謝の念は過去の経験でひとつもない。
たとえ正しかろうと、私を批判したり、体罰(昭和の時代は体罰がありました)でビンタしてきたり正座を強要して来たようなやつらは、もう一度繰り返すが、たとえその行為が正しくて、生徒のためを思って、愛情から、あるいはやりたくないけど愛の鞭として、そういうことをやったとしても、

全員、機会があれば破滅させます。

私も学校で、体育の授業で、職場で、ずいぶんと理不尽だけれどやらないといけない罰ゲームみたいなことをやらされたり、罰ゲームみたいなことをやらされている人を見て来た。
たとえば「新人は、毎年必ず新人がやっている屈辱的な踊りを、忘年会とかでやらないといけない」みたいな話がよくあるが、
今すぐやめろ、そんなこと。

あるエッセイ集を読んでいたら、昭和の時代、バスケ部で、
「一年生はバッシュを履いてはいけない」
というルールがあったそうだ。
あと別の人が書いた別の本に載っていたのは、
「女子テニス部では、三年生しか白いミニスカート(名称を知らん(笑))とアンダースコートを履いてはいけない」というルールがあり、一年生は体操服にブルマ、二年生はスカートにブルマという中間形態みたいなかっこうでテニスをやっていた」
そうである。

とくにバッシュに関しては機能面の問題だから、禁止する理由がわからない。
テニス部の服装に関しては、江戸時代の階級別のちょんまげの結い方と変わらない。前近代人が身分さを思い知らせるためにやっているのだ。
まったく許せない。ウィンブルドンの大会も中止すればいい。

こういう理不尽なしきたりは、自分はイヤだったのでそういうことのある集団には所属しなかったり、たとえ集団内にそういうしきたりがあったとしても急に休んだりしてごまかしてきた。

が、56歳になって思うのは、こういうことをどうにかこうにか、どこかの局面で数回は我慢してこないと、そもそもどんなコミュニティに所属できないということだ。
バスケ部で「一年でもバッシュが履きたいです」と強硬に主張したら、けっきょく退部だろう。
おまけに私みたいに人見知りだったりすると、人間関係が大幅に狭まってしまう。
で、結局、まともな人間社会には受け入れられないことになるよ。
そうすると活動範囲も極端に狭くなるし、高収入の仕事にも就けないと思う。

あまりに能力が高く、そういうコミュニティ内の面倒をすべて免除されてしまうような人もいるにはいるが、あくまで例外です。

話が「一年生はバッシュ禁止」とか「アンスコ禁止」の話に戻るのだが、学校教育では、「世代別に輪切りにしてクラスという閉鎖空間で教育する」授業と、「縦社会で、多少の理不尽には目をつぶる運動部の部活」という矛盾した価値観が、同じ学校内に同居しているのはいったいどういうことなんだろうね?

「帰宅部」という言葉があるが、この言葉の裏には「部活の価値観を拒否している」という意味があると思う。同じ学校に通っていても、部活に熱心な子と帰宅部とでは、住む世界が違うのだ。

これは「同じ学校内に多様な価値観がある」ということとはまったく違う。なぜなら、「教室での教育」と「部活教育」は完全にコンフリクトを起こす、矛盾したものだからだ。
これらが同居していることに、教育界で議論がないはずがないが、私のところにまでは届いていない。

なお、不良の生徒が、「不良のコミュニティ内」では殊勝に先輩に従っているのも、前から気に入らなかった。
先輩だろうが教師だろうが、だれにでも噛みついてメチャクチャをやるようなヤツは(薬物中毒者以外)案外いないものだなと思う。
ああ、退屈だ、退屈だ。

「仁義の墓場」でも見るか。

おしまい





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?