見出し画像

【人生色々あった人流】選択をする最終判断材料とは

人生には3つの”坂”があります。

上り坂、下り坂、まさか、です。

誰の言葉か忘れましたが、この言葉を聞いたとき「なるほどね」と思いました。

想定外の出来事は絶対的に起こるもので、想定をどの程度しておけるかも重要なポイントだったりします。

「そんなに生き急いでどうするの?」と10代の頃から言われてきましたが、本当に人生色々ありました。

そんな私が選択に迫られたとき、最終的にどうやって決めるかをお話します。


考えること、迷うこと、これらは時間の許す限りする


私は決まると早いですが、決めるまでは時間の許す限り悩みます。

同じ場所を何周もして様々な角度から物事を観察して、時間が許すなら何年でも悩んで答えを出します。

答えが出れば、そこから先はあっという間です。

びっくりされるほどのスピードで、答えを具現化していきます。

なので、あまり悩んでいるように見られません。

考えたりうじうじ悩むこととはほど遠いと思われることが多いですが、実は意外とそんな時間も好きだったりします。

人生のほとんどのことは、「やっぱりやり直す!」ができないじゃないですか。

この年になって思うと、学校には真面目に行って勉強をするべきだったと思います。もっと手堅い手に職を付けておけば、人生のリスクヘッジを減らせたのに…とか。

今から学校へ通って手に職をつけることは、現実的に可能です。

しかし、そのときのその瞬間に学校へ行くから意味があって、大人になってから同じことをするのでは意味が変わりますよね。

意味が変わることが悪いのではなく、そのときその瞬間をやり直すことはできません。

なので、石橋は叩きもせず渡りもせず、まずはじっくり観察するのです。


自分がどう感じたか、に重点を置いて考える


人生で選択を迫られるような問題のほとんどに、現実世界での生活が絡んでいます。

好きだけでは結婚生活を続けられないのと同じで、自分の気持ちより優先しなくてはならないこともありますよね。

大人になればなるほど、諦めや面倒臭さ、妥協が混じって、自分の感情を置き去りにしがちです。

ある意味それが大人になるということなのかもしれませんが、だったら私は子どものままでいたいと思います。

選択に迫られたとき、自分はどう感じたのか。どうしたいと思って、どうしたら幸せだと感じられたのか。

その思いの強さと、現実世界での生活を天秤にかけます。

あとは、どこで折り合いをつけるかだけです。

幼い頃は感情のまま、周りや生活を考えずに要求を叶えられました。

それもいつからかできなくなり、しなくなり、当たり前になって慣れていきます。

でもワクワクしたり嫌だと思ったり、そういう感情がなくなるわけではないですよね。

やり直すことができないからこそ、自分の感情を大切にしたいと思います。


最高と最悪のシナリオは”逆”を見る


例えば選択に迫られたとして、7:3で悩んでいるとします。

そういった場合、私は7の最悪のシナリオと3の最高のシナリオを考えます。

自分の感情では7いきたいけど、現実的に考えた最悪のシナリオを見る。

対して自分の感情では3くらいだけど、現実で起こりうる最高のシナリオを見てみる。

逆を考えることって、簡単なんですよね。

自分の気持ちでいきたい方に対して、ポジティブなことを考えるのは容易いじゃないですか。

気持ち的にあんまりなことにネガティブが生まれるのは当然で、逆を想定することは”まさか”に近い部分があると思います。

残念でもこの世に絶対はなくて、選択が保証されることもありません。

責任を取るのはたったひとり自分だけで、誰かが選択ミスを解決してくれるわけではないんですよね。

責任を背負って生きるなら、せめて自分が納得できる答えを出したいです。


最後に問うのは「後悔しない?」


後悔、大嫌いです。

しておけばよかった、やっとくべきだった、こうするべきじゃなかった。

全身に蕁麻疹が出そうなほど、嫌な感情です。

色々と悩んだ末に出した答えに、しつこいくらい後悔しないか問います。

例えどんな結果になったとしても、その答えに責任を持てるのか。

胸を張って生きられるのか。答えも結果も愛せると断言できるか。

それでも絶対に、と言い切れる答えだけを出してきました。

少年院に入ったとき、思ったんですよ。

私が入院していたときは最年少が14歳の子でした。19歳の私には中学生の彼女がとても子どもに見えていました。

そんな彼女も、自分のした責任を自分で取っているんですよね。

自分の犯した罪を償うために、自分で責任を果たそうとしている。

子どものあれこれにすぐ首を突っ込む親御さんも多いですが、子どもに責任の取らせ方を教えるのも大切な教育だと思います。

人生の重要な選択では、たとえ何歳だったとしても責任を取れるのは自分しかいないのです。変わってあげたいと思っても、それは限られています。

少年院に入ったこと、罪を犯したことはほとんどの人にとって後悔することだと思います。

ですが、私の人生には必要な通り道でした。

責任を取るのが自分だと思うと、生半端な答えは出せないですよね。

言い切れる答えかどうか、これはすごく大切なことです。


答えを出したら人の話は聞かない


私は基本的に相談をしませんが、答えを出して先へ進めば状況は変わりますよね。

状況が変われば人からつっこまれるのは当然で、私の出した答えにやんや言ってくる人が現れます。

それは時に肯定されるばかりでなく、否定されることが多いときもありますよね。

私は答えを出したら、人の話は一切聞きません。

答えを出すまでは参考やアドバイスとして聞きますが、答えを出した後は一切耳に入れません。

自分で後悔しないと言い切れる答えを出したのだから、もう迷う必要も考える理由もありませんよね。

あとは結果が付いてくるまで、外野には黙っててもらえばいいのです。

親友だよという友人も、口にしなくても分かってくれる家族も、愛してるという夫も、誰もその責任は取ってくれません。

むしろ人というのは、そんなとき簡単に離れていくものだと思っていた方が幸せでしょう。

行く先が決まれば、あとは進むだけです。

道中つらいことがあったとしても、それすら愛せるくらいの答えなら楽しめるはずですよね。


妥協のない愛せる人生を


私は生まれ変わっても、また私になりたいと思います。

成るようになると思いながら生きてきた部分もありますが、成ることは自分次第で変えられると学んだからです。

28歳は若くも歳を取ってるわけでもなく、今からなんでもできるかと言ったらそうではない年齢になりました。

そうなると諦めを覚え始めるのかもしれませんが、私はもっと選択を大切にしようと思いました。

最近1年があっという間だと感じるのは、それだけ慣れが増えてきたからかもしれません。

きっとこれから先、流れは穏やかになるよりか速度を増していくでしょう。

いつかふと振り返ったとき、自分の歩いてきた道に誇りを持てる人生でありたいなと思います。

元犯罪者にも、笑って暮らす権利はあるからね。

誰にだってあるその権利を、どう駆使するかで人生は面白くなるんじゃないかな。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?