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先進的な新渡戸家と稲造の母

盛岡市にある古本店「pono-books」では、2023年から毎月1回程度、新渡戸基金理事長の藤井茂先生による、新渡戸稲造について気軽に学ぶ「新渡戸講座」が開催されており、2024年にはセカンドシーズンを迎えました。

このページでは、その「新渡戸講座」の内容を中心に、稲造についての情報を掲載し、少しでも稲造について知っていただければと思っています。前回も「新渡戸稲造を育てた父と母」の講座内容の一部をご紹介していますので、ご興味のある方はそちらもご覧ください。
 

 
今回も、前回に続き「新渡戸稲造を育てた父と母」についての藤井茂先生のお話の一部をご紹介します。なお、「新渡戸稲造を育てた父と母」についてのお話は、今回が最終回となります。
 
完全な文字起こしではない、ざっくりした講座内容のご紹介ですので(聞き取り違いの可能性も有)、大目に見てくださいね。
 
それでは、講座内容です!
 
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江戸時代の外国語学習はオランダ語が中心であったのに対し、幕末から明治にかけて、急速に英語の必要性が高まり、そういった時代の流れに敏感に、英語を学んでいったのが、新渡戸稲造や福澤諭吉、次の五千円札の顔に決まっている津田梅子の父・津田仙などでした。

稲造を含め、当時の新渡戸家が持っていた、時代に対するアンテナの高さは、十次郎が留守居役として江戸に滞在する機会が多かったことも影響しているのかもしれません。

しかし、南部藩では、稲造の父・十次郎のような先進的な意見を持った人々が大きなグループとして力を持つことはなく、十次郎も藩内で主流ではなかったようです。

また、新渡戸稲造の母・せきは、盛岡藩士の娘でした。
せきは男勝りな性格で愚痴をこぼさず、進んだ考え方を持つ女性でもありました。
 
当時は盛岡では食べる習慣がなかった牛肉を、子供たちの稲造らに初めて食べさせた、とも言われています。

稲造に対しては、「新渡戸家の名を汚すことなく、家の名を上げよ」と常に話していました。稲造が家を出る際には、「私に会いたいなどと言う弱い心をもつな」と伝えたと言われます。稲造はその教えを守り、約10年母に会うことはありませんでしたが、稲造の学業が一段落して、やっと会うことを思い立って盛岡へ戻って来る、その2日前に、母は亡くなりました。
 
当時、母は乳がんで闘病していましたが、稲造に知らせることはなく、いよいよ命の危険を感じた身近な人々が札幌の稲造に電報を打った時は、稲造は盛岡へ向けて旅立った後で、札幌農学校で稲造の同期であった内村鑑三らが、その電報を受け取りました。
 
結局、稲造は母の危篤を知ることなく、途中の青森で余分な日数を過ごしてしまったこともあり、母の死に目に会うことはできませんでした。

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これまで、3回にわたって簡単にご紹介してきた「新渡戸講座」の「新渡戸稲造を育てた父と母」についての藤井茂先生のお話は、今回が最後となります。
 
盛岡市にある古本店「pono-books」で、2023年から毎月1回程度開催されている「新渡戸講座」はセカンドシーズンを迎え、参加者の方やご興味を持つ方が、回を重ねるごとに増えている印象です。
 
このページをご覧いただき、講座へ参加したことがなかった方も、会の様子が少しでも伝わったでしょうか。

そしていよいよ、6月の新渡戸講座が、明日6月15日の午前10時30分から開催されます。

テーマは「新渡戸稲造と夏目漱石」

意外な組み合わせの二人ですが、どんな関係があるのでしょうか?

ぜひ一度、実際に講座に参加してみてください。少人数で、途中での質問も気軽にできる楽しい会ですよ。
 
詳しい内容などはpono-booksさんのインスタグラムをご覧ください。

https://www.instagram.com/pono_books/

 

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